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【兵庫】「破戒」のモデル、大江礒吉 生誕150年、部落差別と戦った教育者[09/14]
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0001坊主 ★
垢版 |
2018/09/18(火) 22:51:00.58ID:CAP_USER
島崎藤村の小説「破戒」のモデルとなったといわれている大江礒吉
http://tanba.jp/system/wp-content/uploads/2018/09/0913-2.jpg

 島崎藤村という有名な小説家に「破戒(はかい)」という作品があります。被差別部落出身の教師を主人公にした小説で、この作品のモデルになったといわれているのが、明治34年(1901)に33歳で兵庫県氷上郡(現・丹波市)の柏原高校(当時は柏原中学校と言っていました)の2代目校長になった大江礒吉(ぎきち)。今年で生誕150年を迎えます。礒吉は、その「生まれ」のためにいわれなき差別を受けましたが、差別とたたかいながら教育者として見事な生涯を生き抜きました。

■母のせんべい「もったいない」

 礒吉は、明治元年(1868)、今の長野県飯田市に生まれました。もともとの名前は磯吉(いそきち)で、のちに礒吉と改めました。

 磯吉の祖父も父も「番太(ばんた)」という仕事をしていました。村の番人として警備の仕事をしたり、ときには変死体の処理や墓掘りをしたりしていました。「番太」は、いやしい職業とされ、さげすまれていました。

 磯吉は小さいころから利発な子どもでした。両親は「何としても学問で身を立たせてやりたい」 と願い、貧しさにあえぎながらも、必死の思いで磯吉を学校に通わせました。

 母親は、磯吉の学費や生活費をかせぎ出すため、せんべいを焼いて、遠くまで売り歩き、夜遅くに帰ってきました。こんな話があります。母親は、売れ残ったせんべいを磯吉に食べさせようとしましたが、母親がどれだけ苦労しているかを知っている磯吉は、せんべいを食べることが何とも申し訳なく、母親がいくら 「お食べ」と言っても、「もったいない」と食べませんでした。磯吉の人柄がつたわってくるエピソードです。

■ランプ頼りに猛勉強

 磯吉は14歳で、中学校(今の飯田高校)に入学しました。中学校に入学できる生徒は少なかった時代です。にもかかわらず、磯吉が入学できたのは、近所の人たちらの支援があったからです。成績が優秀で、日ごろの行いも良かった磯吉は近隣の人たちから愛されていました。

 この中学校で、大きな出会いがありました。武信由太郎(よしたろう)という英語教師との出会いです。 武信は、我が国の英語教育に多くの業績を残した先生で、欧米の文明に明るく、自由主義を尊んだ人物でもありました。

 磯吉をかわいがった武信先生は、欧米諸国の文化を磯吉に紹介し、キリスト教精神に基づく自由や平等といった民主主義の考え方を説いて聞かせました。教育に対する磯吉の考え方には、自由と平等を尊ぶところがありますが、武信先生との出会いがその出発点になったのでしょう。

 貧しいために、辞書や参考書も買えない磯吉のために、武信先生らは英語辞典などを貸し与えてくれました。磯吉は毎夜、薄暗いランプを頼りに、それを写しながら勉強に励みました。中学校を卒業し、長野師範学校に進んでからも、磯吉は猛勉強をしました。「差別に打ち勝つには勉強しかない。勉強で負けないようにしなければ」と必死の思いでした。

■「生まれ」理由に塩まかれる

 教育者の道を志した磯吉は、18歳で小学校の先生となりました。しかし、磯吉の「生まれ」が問題にされ、磯吉はその学校を追い出されるようにして去っていきました。

 20歳のとき、東京にあったわが国でただひとつの高等師範学校に入学しました。わが国の教育界で、最高の学校とされたところです。入学生はわずか30人。しかも磯吉はトップの成績で入学し、さらにトップの成績で卒業しました。

 卒業後、磯吉は母校の長野師範学校の教壇に立ちました。しかし、差別がなかったわけではありません。教育学の講習会が開かれたとき、磯吉の宿泊した宿が、磯吉の泊まった部屋の畳替えをし、 塩をまくという事件がありました。

 明治26年(1893)、磯吉は大阪師範学校の教諭となりました。このとき、磯吉は名前を「礒吉」に改めました。新たな人生を切り開くために、自分自身に何らかの変革を求めたのでしょう。しかし、わずか2年で大きな壁にぶつかりました。 「生まれ」があばかれたのです。

 ある日のこと。礒吉の母親が、学校にやって来ました。そのときの母親の言葉づかい、態度などに疑問を持った生徒が礒吉の身元調査をしたのです。礒吉を退ける動きが起こり、鳥取師範学校へ移りました。そして明治34年、柏原中学校の2代目校長として着任しました。

丹波新聞 2018年9月14日
http://tanba.jp/2018/09/%E3%80%8C%E7%A0%B4%E6%88%92%E3%80%8D%E3%81%AE%E3%83%A2%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%BB%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E7%A4%92%E5%90%89%E3%80%80%E7%94%9F%E8%AA%95150%E5%B9%B4%E3%80%81%E9%83%A8%E8%90%BD%E5%B7%AE/
0002やまとななしこ
垢版 |
2018/09/18(火) 23:08:07.23ID:ojvCycAd
どういう存在だったのか?→現在の『警察』的存在で様々な特権を付与されていた。
どういう仕事をしていたのか?→年貢を納める農民の監視・逮捕・拘留・取調べの権限付与
何故そんなことをしていたのか?→年貢=藩の経済基盤だから確実な年貢徴収のため。

以上の事実を『自分の頭で考え、理解できる』ならば、

『部落民=貧困・差別されてかわいそう』などいうのはインチキ・嘘、ファンタジーで、
実際は『部落民=藩の現業公務員的存在』だった。、
では一番かわいそう苦労したのは重い年貢を課せられた農民。
今現在税金納めている一般市民と財政難なのにボーナス出る公務員と何ら変わらないよね、
と結論が導き出される。

そのインチキがばれる、既得権喪失を恐れて解同は『エタ・ヒニン』を
禁止ワードにしたり自作自演をしててでも『差別』がある!という演出に余念がないわけ(笑)

部落解放運動や在日差別?をマンデラ・キング牧師と同列に扱うのは失礼
http://hamaguri-inspire.blogspot.jp/2013/12/blog-post_1255.html
0003やまとななしこ
垢版 |
2018/09/18(火) 23:28:27.74ID:SoZQKOom
元々、指定されてた同和地区なんて少なくて、貧民 耕作地放棄して逃げ込んで来た人口
層が多いのよ。
俗に言われるエタヒニンは藩にとって有用な皮革産業 警察吏員の役割をまかされていて
本来の同和は特権階級で人口も少なかった。
0004やまとななしこ
垢版 |
2018/09/19(水) 23:21:24.33ID:u9HI6prW
破戒
0005やまとななしこ
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2018/09/19(水) 23:43:16.77ID:Z9Lm9edd
利権で大金持ちだなw
0006やまとななしこ
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2018/09/19(水) 23:44:03.64ID:RdOQSYHV
>>2
そうやって分断統治するのは常套手段
イギリスすらインド人を使って間接統治し、憎悪が向かないようにしていた
0007やまとななしこ
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2018/09/19(水) 23:48:18.17ID:RdOQSYHV
>>5
ユダヤ人が金融で身を立てられたのは、当時金融が卑しい仕事とされていたから、
やらせなかった
インドネシアでも似たようなものがある

昔は医師も卑しい職業だった
特に日本と中国では死に関わるから忌避されたが、
時間が経つに連れ、権威あるものとして扱われた
こうしてマイノリティから脱出した

このように時代とともに卑しい身分や職業ってのは変わるのだ
0008やまとななしこ
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2018/09/20(木) 22:20:02.81ID:yqsJ8X9f
ふむふむ
0009やまとななしこ
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2018/09/20(木) 23:57:25.64ID:uJP4l62I
なになに
0010やまとななしこ
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2018/09/21(金) 23:49:18.36ID:3pv8n9pw
うんうん
0011やまとななしこ
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2018/09/22(土) 12:18:42.95ID:PYsJBIq/
島崎藤村は長野県須坂市だぞ!
0012やまとななしこ
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2019/05/23(木) 01:40:32.72ID:DNaiIT/n
同じ日本人なのになぜ未だに部落差別をしている人がいるのだ?

部落差別してたら就職も結婚もできないこともある

部落差別はイジメ行為で絶対にやってはいけない
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