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【富士】富士山と宗教…幕府による禁令、神道国教化政策 江戸民衆信仰のその後[01/10]
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0001坊主 ★垢版2018/01/10(水) 23:49:37.42ID:CAP_USER
身禄派の流れをくむ江戸富士講は教派神道を経て、戦後は宗教法人となり、今日も伝統にもとづいた祈りが行われている=神道扶桑教提供
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「富士に祈る」の著者で国文学者の城崎陽子氏。富士講の講員としても活動している=山梨県富士吉田市
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富士信仰の系譜
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 江戸幕府が、「俗体にて山伏に扮した講仲間の取り締まりを行う禁令」を出したのは安永4(1775)年のことだ。その20年後の寛政7(1795)年には富士講を名指しで取り締まるお触れを出している。江戸後期、庶民の間で爆発的に人気が広まった富士講だが、幕府が禁令で取り締まる対象でもあった。

職業や身分、男女の平等に通じる身禄の教え

 多くの山岳信仰がそうであるように、富士信仰も古より遠くから崇め奉る遥拝による信仰が基本であった。仏教信仰が広まり、また、修験道の行者など一部の者が登拝を行うようになり、元亀3(1572)年には角行(かくぎょう)が初めて吉田口より富士山登拝を成し遂げたと伝えられている。角行は長崎の出身、現在の岩手県平泉町の岩屋で修行中、修験道の開祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ)が現れ、富士山の人穴で修行をするよう示唆を受け、富士山で荒行を重ねるようになった。

 角行の教えが、後に富士信仰として江戸庶民の間で広まっていくことになるわけだが、その普及に大きな役割を果たしたのが、角行の五代目後継者、食行身禄(じきぎょう・みろく)と六代目後継者の村上光清(むらかみ・こうせい)の2人で、それぞれ身禄派、光清派と呼ばれている。角行の教えを忠実に受け継いだ光清に対し、身禄は角行の教えを発展させ、自ら富士山で断食修行をして教えを説いて亡くなったという。

 こうした身禄の過激とも言える修行が江戸大衆の心を動かし、富士講の爆発的な人気へとつながっていったのではないだろうか。身禄の教えは、職業、身分、性別による上下関係を否定し、それぞれが役割を担っているという、ある意味、市民、男女の平等をうたい、自身の徳を積むことが一番大切であると説くものであった。当時としては先進的な考え方であったことから、士農工商による身分制度によって世の中を統治していた江戸幕府、さらに伝統的な宗教界からは歓迎されざる側面があった。

「集団化してみだりに宗教活動を行うことを禁じた」

 富士講と名指しされた禁令が最初に出た寛政7(1795)年の3年前、寛政4(1792)年にはロシア使節ラクスマンが、漂流した大黒屋光太夫とともに北海道・根室に来航し、松前藩を通じて幕府に通商を求めており、開国の波が幕府に押し寄せる前夜とも言える時代であった。幕府は、寛政7(1795)年から嘉永2(1849)年までに計8回にわたり、富士講と明記した禁令を出している。世の中は明治維新に向けて動き始め、政治的にも社会的にも混迷を増しつつあった。そうした時代にあって権力者が、人心に影響する民衆信仰に神経をとがらせるのは当然といえば当然のことであった。

 国文学者で富士講について詳しい獨協大学特任教授の城崎陽子氏は、富士講禁令について「江戸幕府は、富士信仰を禁じたわけではなく、集団化してみだりに宗教活動を行うことを禁じたというべきでしょう。取り締まり自体はそれほど厳しくなかったようです。俗体にも関わらず、山伏に扮し、鈴をならし、集団化して唱えごとをする行為が禁じられたのです。禁令によって、富士講の人々が幕府に捕らえられたとか、刑罰を科せられたということはなかったようです」としている。江戸時代後期、幕府の目が光る中でも富士講は庶民パワーによって普及し、江戸の町だけでなく関東を中心に各地で活動が行われた。しかし、明治維新を迎え、新政府によって新しい国家体制が整えられると富士講を取り巻く環境は大きく変化していった。

神道国教化政策で「淫祠・邪教」に

THE PAGE 2018.01.10 15:31
http://thepage.jp/detail/20180110-00000008-wordleaf
0002やまとななしこ垢版2018/01/11(木) 00:29:33.49ID:NnQ1m4sx
淫祠というのは初めて聞いた。
なかなかインパクトのある言葉だ。
0004やまとななしこ垢版2018/01/11(木) 01:29:10.08ID:h1IZb7Im
キリスト教による国家乗っ取り、天草の乱は
現代で云えばオウム事件に相当する恐怖事件
0006やまとななしこ垢版2018/01/11(木) 14:29:42.62ID:EhlhKdzg
噴火の火砕流で殺され
噴煙で日光遮られて大飢饉で殺され
姿が良いと信仰の対象かよ
0007やまとななしこ垢版2018/01/11(木) 16:32:12.16ID:CaQqjInh
そこで池田先生の教えですよ!
0008やまとななしこ垢版2018/01/11(木) 19:36:38.75ID:owAWMExg
講とか徹底的に潰されてんだろうな
無尽講とか名を変え姿を変え地域に根付いて残ってそうなもんだけど
今じゃあ難しいんだろうな
0010やまとななしこ垢版2018/01/11(木) 23:40:54.77ID:hRQ8Zx8f
富士山頂では御来光の時に君が代が流れるんだよ
政治から離れて純粋に日本のことを厳かに思う気持ちになれるから素晴らしい
0011やまとななしこ垢版2018/01/12(金) 09:03:27.12ID:fZ3hyoAT
>>2
喧嘩売るつもりも荒らすつもりも無いけど、その意見に驚いた。
小説じゃなくてコミックでも、「淫祠邪教」って言葉の出没頻度は、
中の中〜下くらいのレア度で、一般認知度高い気がしてた。
0013やまとななしこ垢版2018/01/12(金) 17:57:03.24ID:CTAf/VUb
講はクーデターのための資金集めだからまあ反政府として潰されるだろ
中国でも古来より講からはじめて革命起こしてるから
0015やまとななしこ垢版2018/01/13(土) 20:12:16.32ID:haLwjv1u
文政2年(1819年)に富士講の信者たちに頼まれて、その地に富士山を模した山(富士塚)を造園した。
目黒新富士、近藤富士、東富士などと呼ばれて参詣客で賑い、門前には露店も現れた。
この新富士の管理を父親から任された富蔵は、農夫の塚原半之助に頼まれて蕎麦の露店用の土地を貸したが、家賃の未払いから諍いが生じた。
1826年(文政9年)博徒あがりの町人(農夫とする説も)、塚原半之助と父重蔵が持つ別荘(前述の新富士のこと)の地所境界争いから、塚原半之助とその妻や母親、子供計7名を殺傷し、その罪から同年に伊豆諸島の八丈島に流罪の判決。
俗に言う「鎗ヶ崎事件」である。
翌1827年(文政10年)八丈島へ。
0016やまとななしこ垢版2018/03/16(金) 01:12:55.54ID:nBqomg8S
超重大妄想通信、発表!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

日本古神道(神格を守ってのヒトの荒廃実験をしつつ、中国国家機密から伝わった国家機密「神通力」を使う八百万の神の柱たち)の
開祖は、斎藤卑弥呼。斎藤氏の祖先であり、日本人なら知らないものはいない女王卑弥呼である。
愛子さまの日本書記研究から判明。

斎藤氏は女系である。
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