【産経】日米関係 [転載禁止]©2ch.net

1名無しさん@お腹いっぱい。2015/05/01(金) 16:20:25.86ID:p2mcRl6J
【歴史事件簿】
パールハーバーの誤算(1) 日米はなぜ開戦に至ったのか…米も欲した満鉄利権、確執は満州での“すれ違い”から始まった

 今から74年前の昭和16年12月8日、旧日本軍はハワイ・真珠湾のアメリカ太平洋艦隊を攻撃し、太平洋を
舞台にしたアメリカとの戦いに突入する。当時、アメリカの生産力が日本の10〜20倍もあったため日本の軍部
の中にも対米戦に消極的な声もあったのだが、なぜ踏み切らなければならなかったのか。その原因は、真珠湾
攻撃の36年前に日露戦争の講和を仲介したアメリカとのすれ違いから始まっていた。

■ターゲットは満州

 明治33(1900)年6月、欧州列国が相次いで清国に進出する中、山東省で起きた排外運動「義和団の乱」が
またたく間に北京へと拡大していった。

 このため日本など8カ国が現地に住む自国民保護を目的に軍隊を出して乱を鎮めたまではよかったが、各国は
兵を引き揚げさせたのに対しロシアは兵を満州に送り込んできた。

 そんなロシアに強い危機感を持ったのが日本とアメリカだった。

 南北戦争後、欧州にならい支配力を広げたいアメリカはハワイ、フィリピンに続いて狙ったのが満州であり、日本
も本土をロシアから守る防衛線として満州が必要だった。

 そしてロシアの進出を抑えるため、明治37年に起きた日露戦争で日本を資金援助したアメリカが、日露両国の
講和締結に積極介入したのも、満州の利権が欲しかったからにほかならなかった。

 そこで講和締結後、アメリカの鉄道王、エドワード・ヘンリー・ハリマンは日本がロシアから得た権益のうち、新京
(長春)から大連間を走る鉄道(南満州鉄道)の共同経営を1億円の財政援助とともに持ちかける。

 明治36年の国家予算が約2億6千万円という時代の1億円である。首相の桂太郎はハリマンの提案を歓迎して
受け入れる。

2名無しさん@お腹いっぱい。2015/05/01(金) 16:47:55.60ID:p2mcRl6J
ところが、ハリマンとすれ違いに帰国した外相・小村寿太郎は反対する。多くの国民の犠牲を払って得た権益を
アメリカと分けると他国に足もとを見られるというのが理由だが、最終的には奪い取られるといった疑いを持って
いたとみられる。

 結局、桂は小村に従うのだが、突然の破棄にハリマンの怒りは収まりがつかなかった。以後、日本とアメリカは
対極の立場をとるようになる。

■対立深める日米

 こと満州のことになるとアメリカの態度は執拗(しつよう)だった。明治42年、日露両国が握る満州内を走る鉄道
の権益を中立化させて自分たちを含む共同管理を提案したほか、清国と満鉄に並走する鉄道建設なども計画する
が、失敗に終わる。

 それでも諦めないアメリカは大正11年、ワシントンに主要9カ国を集めた軍縮会議を開催すると、日英同盟破棄や
清国崩壊後に成立した中華民国への進出の抑制など日本の弱体化を狙った合意を引き出す。

 さらに満州を治める張作霖(ちょうさくりん)政権と満鉄に対抗する鉄道建設と同時に、満鉄とつらなる大連港に
対抗し、大連と渤海(ぼっかい)湾を隔てた対岸に位置した葫芦島(フールータオ)に貿易港の建設も計画。中国の
抵抗もアメリカの支援のもとで強まっていった。

 そんな中、昭和6年に奉天郊外で起きた満鉄爆破事件に端を発した中国との武力衝突(満州事変)に続いて、6年
後には北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)で中国・国民党軍との紛争が発生するなど戦線は拡大する一方だった。

 そんな強気の姿勢を崩さない日本に業を煮やしたアメリカは、「中国でのアメリカの権益が日本軍に侵害された」と
して14年に日米通商航海条約破棄を通告する。

 つまり、資源に乏しい日本にガソリンや鉄など戦争継続に必要な物資の輸出を禁じたことで日本の弱体化を図ろう
としたのだ。
 はじめは動揺を隠せなかった日本だったが、東南アジアの資源地帯に目をつける。当時、協調関係にあったドイツが
フランスに勝っち、フランス領インドシナ(仏印=現在のベトナム・ラオス・カンボジア)がパックリ口を開けて待っていた
からだ。
 だがアメリカにとっても仏印は、中国側に物資を送る輸送ルート上にあったたため、日本軍の仏印進駐を強硬に反対
する。

■ニイタカヤマノボレ

 昭和15年、日本軍はそんなアメリカのいらだちを知りながら北部仏印に進駐すると、ドイツ、イタリアと軍事同盟を
締結。16年には南部仏印に進出したことでアメリカとの対決姿勢はさらに鮮明となった。

 そんな状況下、連合艦隊司令長官の山本五十六大将は、アメリカと戦うならばまずハワイのアメリカ太平洋艦隊を
潰し、その後の戦いを優位に進めるしかないとして航空機による攻撃を計画する。

 航空母艦(空母)6隻と航空機400機という世界でも類例のなかった機動部隊を編成すると、対米交渉中にもかか
わらず、宣戦布告直後の奇襲攻撃を狙って11月22日、ハワイに進路をとった。

 それから10日後にあたる12月2日、荒れ狂う太平洋上を進む空母「赤城」の艦橋内で、機動部隊の指揮をとる南雲
忠一中将は依然として定まらない対米交渉の行方を気にしながら、雨と波がたたきつける窓の外をみつめていた。

 結果次第では引き返すことも考えられたが、午後5時半、ドアが開き、やや興奮の様子で入ってきた通信参謀が
「長官、電文であります」と山口の連合艦隊から送られた電文を差し出してきた。

3名無しさん@お腹いっぱい。2015/05/01(金) 16:49:31.74ID:p2mcRl6J
 南雲が「読め」と静かに指示すると、しっかりした口調で「本文、ニイタカヤマノボレ一二〇八(ひとふたまるはち)」と
読み上げた。12月8日に開戦すべしとする内容だった。

 ニイタカヤマ(新高山)は、日本が当時、統治していた台湾の山(現在名は玉山)。標高が3、952メートルと富士山
より高い、日本の最高峰だった。

 電文を聞いた南雲は隣の参謀長、草鹿龍之介少将の方を見て、「うまくいくのかな」と話しかけたともいわれている。
     


当時の世相映した国策映画「潜水艦1号」

 対中戦争を進める日本は昭和14(1939)年に映画法を制定すると、「海軍爆撃隊」「燃ゆる大空」などといった、
娯楽色を廃して軍国主義を強めた映画の製作を強制的に進めるようになる。「潜水艦1号」もそんな1本。

 アメリカと対決色を強めていった昭和16年5月に公開されている。明治43年、技術的に未熟の域にあった潜水艇
の艇長として乗り込んだ久間勉大尉は沈没事故で生命が絶望視される中、冷静に艇内の様子を記録した精神力は
当時の軍人の手本ともされていた。

 映画は、そんな佐久間大尉の故郷で育った少年2人のうち、1人がのちに潜水艦の設計士として最新鋭艦を設計し
、もう1人が艦長としてその艦に乗り込んで試験航海に臨むといった内容になっている。

 まだ戦闘シーンがあるわけではないが、「必ず米英と戦うときが来る」と艦内の居住性を廃して、武器などに重点を
置いて新鋭艦開発を進める姿に、当時の緊迫した世相を垣間見ることができる。 

4名無しさん@お腹いっぱい。2015/05/01(金) 16:54:59.15ID:p2mcRl6J
パールハーバーの誤算(2) 職を賭した山本五十六の「奇襲」決断…開戦は宣戦布告30分後 綱渡りの全軍突撃命令

 昭和16年12月、ハワイに向かう空母6隻を中心とする機動部隊に8日の開戦を命じた連合艦隊司令長官の山本
五十六(いそろく)大将だが、宣戦布告から30分後の攻撃という綱渡り的なスケジュールには一抹の不安をもって
いた。「ここで手順を間違えば…」。何度も外交手順に念を押したのは、赴任の経験を通してアメリカの力を十分に
わきまえていたからにほかならなかった。そんな中、当初の予定の8日未明、広島・柱島沖に停泊中の戦艦「長門」の
作戦室にハワイ攻撃機から全軍突撃命令の電波が届いた。

■航空機で真珠湾を

 山本が航空機による真珠湾攻撃を初めて口にしたのは昭和15年3月の合同訓練のとき。航空機隊による対艦魚雷
攻撃の見事な成果に上機嫌の山本は「あれでハワイはやれないか」と、連合艦隊参謀長の福留繁少将に話しかける
と、福留少将は不思議そうな表情を見せたという。

 日本が描いていた対米戦は日露戦争の日本海海戦のように、真珠湾から出てきた艦隊を度重なる潜水艦と航空機
による攻撃で疲弊させた後、日本近海で迎え撃つというものだった。

 だが、留学や海軍武官としてアメリカに赴任した経験を持つ山本は底知れないアメリカの力を見ていただけに、思い
も寄らない攻撃でハワイの太平洋艦隊を一気にたたくしか勝機はないとみていた。

 そこで目をつけたのが、昭和5年以来開発に携わっていた航空機による攻撃だった。

 山本は16年1月、第11航空艦隊参謀長の大西瀧治郎(たきじろう)少将に作戦研究を命じる。大西はこの後、
特攻隊の創設者として知られることになるが、当時から山本同様、海軍きっての飛行機通だった。

 山本に作戦立案の可能性を聞かれた大西と、大西が声を掛けた第1航空戦隊航空参謀の源田実(げんだみのる)
中佐らが問題にしたのは、真珠湾の水深だった。

 通常、魚雷を抱く雷撃機(らいげきき)が高度100メートルから落とした魚雷はいったん水深60メートルまで沈むの
だが、真珠湾の水深は12メートルしかない。このままでは海底に突き刺さってしまうので、航空機が海面スレスレ
から魚雷を落とすことで差を詰めるしか方法がなかった。

 そこで真珠湾と地形がよく似る鹿児島・錦江湾での訓練では、民家の屋根近くまで高度を落として飛んだことから、
周辺の住民から「近ごろの海軍さんはたるんどる」といった声が出るほどだった。

■アメリカの絶縁状

 当初、「投機的だ」と航空機による対艦攻撃の効果に疑問を持っていた海軍軍令部は山本の作戦に難色を見せて
いたが、「作戦を認めなければ連合艦隊司令長官を辞める」という山本の固い決意に驚き、渋々ながら認めたのが
16年10月19日だった。

 一部にしか知らせず実施した猛訓練の結果、魚雷の深度を10メートルまで引き下げるまでに上達すると、出撃
間近に考えた魚雷の両側に付けたベニヤ板のヒレが予想以上に浮上効果を上げ、問題を解決する。
 
 作戦は重大機密事項だけに、鹿児島で訓練を終えた艦隊は大分県・佐伯湾に集結後、北方四島の択捉(えとろふ)
島・単冠(ひとかっぷ)湾に向かうが、ここまでは一部の艦隊首脳部にしか作戦のことは知らせていなかった。

 11月22日、機動部隊の20隻以上にも及ぶ艦船が単冠湾に入港。最後に空母「加賀」が着いた後の23日、搭乗
員、乗組員全員に作戦が告げられる。

 一方、日米交渉も最終局面を迎えていた。

 日本軍の中国撤退▽満州国承認▽通商関係の正常化−などが主に話し合われたが、日本が16年7月、フランス
領インドシナに進駐したのを機に、イギリスや中国、オランダも経済封鎖に加わる。

 そして11月27日、コーデル・ハル国務長官が突きつけたハル・ノートは、日本軍の中国からの完全撤退のほか、
アメリカの支援(日本は敵対)する蒋介石政権の承認や日独伊三国同盟の廃棄を求めるなど、絶縁状ともとれる
内容になっていた。

5名無しさん@お腹いっぱい。2015/05/01(金) 16:57:32.01ID:p2mcRl6J
■宣戦布告と開戦

 これを受けて、日本は12月1日、天皇が出席のもと米英蘭への開戦を決定すると、宣戦布告の時間をワシントン
時間で12月7日午後1時(日本時間8日午前3時)としたうえで、開戦は宣戦布告の30分後と申しあわせた。

 現地時間で6日午前6時半(日本時間6日午後8時半)、東郷茂徳外相は駐米日本大使館にハル・ノートに対する
覚書を14部に分けて送ることを伝えた電文を送信。昼過ぎまでに13部を送るが、長大な暗号電文だけに解読だけ
でも時間がかかった。

 ところが、この日は南米に転勤する一等書記官の送別会が予定されていたため夕方までに8通を翻訳したものの、
全員がオフィスをあとにする。そして14部を受け取ったのは翌7日午前7時、攻撃予定時間の6時間前だった。

 宣戦布告にあたる14部は短文だが、文書作成にはタイピストを使わず、キャリア外交官が行うとした政府の指示
通りにしたため作業は困難を極め、昨日届いた13部も作成途上だった。

 その4時間半後の日本時間8日午前1時半(ワシントンは午前11時半)、真珠湾北方約460キロに迫った機動部隊
は攻撃機183機を、その1時間15分後に171機を発艦させている。

 山本大将はそのとき、広島・柱島沖に停泊中の連合艦隊旗艦「長門」の作戦室にいた。山本は対米覚書をアメリカ
政府に渡す時間について幕僚に再確認後、目を伏せて微動だにしなかったという。

 攻撃機発艦の報告を受けたあとしばらく動きは停滞するが、8日午前3時19分、突然に静けさを破るように作戦室の
ドアが開くと、「全軍突撃命令であります」と息を切らせた声が室内に響いた。

 ハワイ攻撃隊の指揮をとる淵田美津雄中佐機から発信された電文だった。(園田和洋)



 真珠湾攻撃が初めて映画化されたのは、開戦1周年記念として、昭和17年12月3日に公開された「ハワイ・マレー
沖海戦」(東宝配給)。監督は山本嘉次郎(かじろう)。特撮技術は円谷英二(つぶらやえいじ)が担当している。

 映画の前半は予科練の訓練シーンが占め、成長した少年が雷撃機の搭乗員として、真珠湾攻撃に参加するといった
内容になっている。

 製作スタッフはミニチュアを製作するにあたり、空母の見学や撮影写真の提供を申し出るも軍部からの協力が得られ
ない。このため新聞の掲載写真を頼りに真珠湾のセットやアメリカ艦船のミニチュアを作る。

 また攻撃機の発艦シーンでは雑誌に掲載された空母を参考に実物大のセットを作り、本物の雷撃機など搭載させる
などで戦後、映画をみたアメリカ軍が本物と見間違い、東宝にフィルム提供を迫ったというほどに完成度は高い。

 戦後、円谷がこの映画をカラーでリメークしたのが「ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐」(東宝、昭和35年
公開)。

6名無しさん@お腹いっぱい。2015/05/01(金) 17:33:39.58ID:p2mcRl6J
パールハーバーの誤算(3) 「トラ・トラ・トラ」奇襲するも米空母は不在…「宣戦布告文書」の遅れ“だまし討ち”印象づける

 日本時間の昭和16(1941)年12月8日未明、ハワイ近海に迫った日本の機動部隊から発艦した約180機の一
波攻撃隊は低空でハワイに侵入後の午前2時52分、奇襲攻撃成功の電文「トラ・トラ・トラ」を発信した。完全に虚を
突いて襲った日本機は停泊中の戦艦や飛行場に壊滅的な打撃を与える。ところが、最大の攻撃目標だった米空母が
いない。しかも攻撃30分前に出る予定だったアメリカへの宣戦布告が遅れたことを知った連合艦隊司令長官の山本
五十六(いそろく)大将は華々しい戦果に沸く中、複雑な表情を見せたのだった。

■トラ・トラ・トラ

 現地時間で7日午前5時55分(日本時間8日0時55分)、日本の機動部隊がアメリカ太平洋艦隊が停泊する真珠
湾まで約460キロに迫ると、淵田美津雄中佐率いる第一波攻撃隊を発進させ、7時5分には島崎重和少佐指揮の
第二波攻撃隊約170機が続いた。

 この日は穏やかな天候だったが、一面に広がった厚い雲が攻撃隊をいらだたせた。ハワイ放送局から流れるハワイ
アンをたどり、正確な計算の上で向かってはいたものの、なんせ海も島も見えないのでは少し心もとない。

 淵田が「そろそろハワイ上空のはず」と思った、そんな瞬間だった。ばっと雲の切れ目を見つけると、そこから見えた
のが目標のハワイ・オアフ島だった。湾内に2列になって停泊する戦艦群も見えた。当時、真珠湾には戦艦8隻を含む
94隻が停泊していた。

 第一波攻撃隊は島の北端のカフク岬から低空で島に侵入すると、海岸沿いに進みながら6方向にわかれ、それぞれ
湾と飛行場に向かった。

 午前7時49分、島の南端に近い真珠湾を確認した淵田機は全軍突撃命令を出した3分後、湾上空に敵戦闘機の
姿もなく、対空砲陣地などからの攻撃がないのを確認すると、奇襲成功の電文「トラ・トラ・トラ」を打つ。

 「トラ」とは「突撃」と「雷撃」を組み合わせた暗号で、第一航空艦隊旗艦の空母「赤城」に送った電文は同時に広島
沖に停泊中の連合艦隊旗艦「長門」も受信した。

 赤城の艦橋にいた司令長官の南雲忠一(なぐもちゅういち)中将と参謀長の草鹿龍之介(くさかりゅうのすけ)少将
は手を握り締めて涙を流し、長門の作戦室にいた山本はというと表情を変えず、じっと上を向いたままだったともいわれている。

■度重なる失態

 アメリカ側も空襲を受ける前に、日本からの攻撃の兆候はとらえていた。

 現地時間で12月7日にオアフ島の10〜20キロに接近した日本の潜水艦から発進した特殊潜航艇5隻のうちの
1隻を、潜水艦航行禁止区域である湾の入り口で哨戒中のアメリカ海軍の駆逐艦「ワード」が発見していたのだ。

 特殊潜航艇は2人乗りで全長約24メートル、排水量は49トン。2本の魚雷を発射できる攻撃能力を備えていた。

 午前6時40分、ワード艦長のG・E・デービス大尉は国籍不明の小型潜水艦の艦橋を砲撃で損壊させたあと潜水艦
が潜航したため爆雷攻撃を加えている。

 デービスはすぐに艦隊司令部に報告したが、この時期、クジラや漁船を敵と誤認して攻撃する事案が発生していた
ため、報告も遅れている。

7名無しさん@お腹いっぱい。2015/05/01(金) 17:36:21.02ID:p2mcRl6J
 またカフク岬に設置していたレーダーが日本攻撃機の機影を捉えていたが、これもほぼ同時刻に基地に到着予定
の爆撃機の編隊と思い込み、報告を怠るという日本にとっては奇跡にも近いアメリカ側の失態が重なっていた。

 そして午前7時55分、急降下で真珠湾に入ってきた1機の飛行機が爆弾を落とすと、ホイラー、ヒッカム両飛行場に
向け、機体と両翼に日の丸が描かれた爆撃機がなだれ込んできた。

 さらに魚雷を装着した攻撃機が訓練と同様に海面スレスレに投下した魚雷は艦船に向かって真っすぐ航跡を描いて
停泊中の艦船に命中。あちこちから大きな水柱が上がり、轟音(ごうおん)が響きわたった。

 アメリカ側には、この魚雷攻撃が一番衝撃的な出来事だったに違いない。水深の浅い真珠湾では魚雷攻撃はないと
高をくくっていただけに防御策はなく、黙ってやられるしかなかったのだ。

■眠れる獅子を…

 第一波に続いて第二波と約2時間にわたる攻撃で戦艦は4隻の撃沈を含む全艦が損害を被ったほか、飛行場攻撃
で300機以上を破壊したとされている。

 予想以上の戦果に洋上の機動部隊も広島の連合艦隊司令部も沸き返ったが、連合艦隊司令長官の山本の表情は
さえなかった。

 第一の攻撃目標の「エンタープライズ」「レキシントン」「サラトガ」の空母3隻がいずれも整備や航空機輸送などの
任務にあたっていたため、空襲時に湾内になく依然、無傷のままということがあった。

 これからは制空権を征した方が戦いを優位に進められると予想していた山本はアメリカの空母をたたくことでさらに
優位に立ち、アメリカが生産力に物を言わせて立ち直らないうちに早期和平に持ち込みたかったのだ。

 だが最大の要因は他にあった。攻撃の30分前にアメリカ政府に手渡すはずだった宣戦布告にあたる「対米覚書」が
攻撃開始から55分後の7日午前8時50分(ワシントン時間で午後2時20分)まで遅れたことにあった。

 14部に分けて暗号電文で送った対米覚書を、翻訳のうえでタイピストを使わずに文書を作成するのに手間取ったの
が原因ともされているが、攻撃を知らなかった駐米大使館員の油断という指摘もある。

 だが、山本にとってはそんな原因はどうでもよかった。留学や武官としての赴任経験を通してアメリカの国民性を知る
だけに、「卑怯(ひきょう)なだまし討ち」とみられても仕方ない今回の外交の遅れが、今後の戦局に大きくのしかかっ
てくるだろうと考えたのだろう。

 つまり、アメリカの戦意を喪失させる作戦が、眠れる獅子を起こす結果を招いてしまったというのだ。   (園田和洋)
    


 映画法施行後、国家統制が強められた日本の映画界だが、そんな中で昭和15年に公開された「支那の夜」は上海
を舞台にした日本人船員と中国人女性との恋愛モノで、中国大陸への強い関心も手伝って大ヒットを記録した。

 当然、企画段階でこの映画も内務省から厳しい検閲を受け、内務省からは国民の規範となるような恋愛劇と要求される。

 それに対して出来上った作品は、殴られた中国人女性が殴った男性を…といった内容。つまり強い日本と従順な
中国を印象づけており、これも国策映画のひとつと指摘する声もある。

 真珠湾当時公開された映画は「忠臣蔵」や「次郎物語」で、16年に入っても公開されていたアメリカ、イギリスで
製作された映画は11月の「城砦」を最後に終戦まで公開されることはなかった。

8名無しさん@お腹いっぱい。2015/05/01(金) 17:42:29.50ID:p2mcRl6J
パールハーバーの誤算(4完) 囁かれる「ルーズベルト陰謀説」…あえて奇襲を受け日本を「悪者」に

 現地時間で昭和16年12月7日朝(日本時間は8日未明)、日本海軍の航空母艦6隻を主力とする機動部隊が
ハワイのアメリカ太平洋艦隊を急襲。計約350機による攻撃は予想をはるかに上回る戦果をあげた。ところが日本
軍はこれに満足してか、さらに続ける予定だった攻撃を切り上げて帰途につく。対するアメリカ政府は“日本軍の
だまし討ち”として国民や議会に漂っていた厭戦(えんせん)気分を一気に吹っ飛ばし、世界戦争に参戦していった。

■無傷での帰途

 現地時間で午前7時55分に攻撃を始めた淵田美津雄(ふちたみつお)中佐率いる日本軍第1波の約180機に続き
、その1時間後に到着した島崎重和少佐指揮の第2波の約170機が真珠湾に停泊する艦艇や周辺の飛行場などを
攻撃した。

 航空機による艦船攻撃は真珠湾の1年前、イギリス空母の艦載機がイタリアの戦艦1隻を撃沈、2隻を大破させた
タラント港空襲の例があったが、どれほどの効果があるのか、未知の部分も多かった。

 それだけに、淵田機は戦況と効果を詳細に見届ける必要から第1波攻撃終了後も戦場に残り、第2派攻撃終了と
ともに帰還する。

 そして機動部隊旗艦の空母「赤城」に戻り、機動部隊を指揮する南雲忠一(なぐもちゅういち)中将に報告する。予想
以上の戦果に南雲長官の頬も緩んだことだろう。

 だが重油タンクや工場は手つかずのまま。しかも空母も見つかっていない。重油タンクを破壊すれば、3カ月程度は
艦隊が動けないとされていたが、最初に攻撃すれば黒煙で目標の艦艇が見えにくくなる可能性もあり、ここまで残され
てきたとみられる。

 次席指揮官の三川軍一中将や第二航空戦隊司令、山口多聞(たもん)少将から再攻撃の催促が入る。ところが
南雲中将の判断は「敵機動部隊の警戒を厳にし、北上しろ」だった。つまり、進路反転して帰途につけという意味である。

 開戦前、海軍軍令部は作戦を認める代わりに「虎の子の機動部隊を無傷で連れて帰ってほしい」と注文を付けたと
いわれている。

 このため、日本側が受けた損害は29機と記録されているが、敵の攻撃を受けてすぐに使えない機体も74機にもの
ぼり、そんな中で敵空母とぶつかった場合の被害の大きさを考えたのだろう。

 また、燃料の問題もあった。広島の連合艦隊司令部からも再攻撃の声ががったが、山本五十六(いそろく)司令
長官は「南雲にまかせよう」と命令を出さなかった。

■陰謀説

 一方、「真珠湾が空襲された。演習ではない」と7日午前8時(ワシントン時間で午後1時半)、発信された電文には
ワシントンのアメリカ政府も驚いただろう。

 このとき、この日ワシントン時間で午後1時、日本の宣戦布告に等しい対米覚書を手渡しに来ることになっていた野村
吉三郎・駐米大使の姿はこの時なかったのだ。

 しかしアメリカも、第3次近衛文麿内閣がこの年の秋口に決めた日米首脳会談による和平交渉が行き詰まりを見せ
、東条英機内閣に代わった今、開戦しかないとみていたはず。

 実はアメリカ側は日本の暗号電文を解読して真珠湾攻撃を知っていたが、アメリカの暗号解読能力を日本側に伏せ
るため、ハワイの太平洋艦隊に情報を伝えることなく、攻撃させたという説もある。

 さらに低迷する景気脱出のために日本を卑怯者(ひきょうもの)扱いにし、戦争に消極的なアメリカ国民をたきつけて
戦争へ向かわせ、戦争での特需景気を狙ったとするフランクリン=ルーズベルト大統領の陰謀説も根強く残っている。

 いずれも真偽のほどは不明だが、ハワイも最近の不穏な日米関係から、日本の攻撃の可能性は十分に認識していた
だろうし、そのためのレーダー監視の強化だったはず。

9名無しさん@お腹いっぱい。2015/05/01(金) 17:50:22.08ID:HTtfUwPv
 しかもハワイ攻撃の直前には、日本陸軍もマレーを舞台にイギリスと交戦状態にあり、アメリカとの戦いも近いことは
確信していただろう。

 ただしハワイもワシントンも、日本がこれほどまでに性能の優れた攻撃機・戦闘機を持ち、それが一度に数百機も
襲いかかってくるとは思っていなかったのではないだろうか。

■脅威の回復力

 日本の攻撃時に湾内にいなかったた空母「エンタープライズ」は真珠湾から西270キロで一報が入っている。その
ときミッドウェー島に向かう途中だった空母「レキシントン」とともに偵察機を出し、発見し次第攻撃するつもりだった。

 だが日本の艦艇を見つけることなく、「エンタープライズ」は8日、真珠湾に寄港する。黒煙を上げて破壊された戦艦
を見て声を失うウィリアム・ハルゼー中将だが、無傷のタンクから燃料を補給すると哨戒のために出港し、直後に日本
の潜水艦を沈めている

 この後、エンタープライズは数々の戦いに参加。そのたびに損傷するも終戦まで残る。さらに沈没・着底した戦艦の
うち壊滅的な打撃を受けた「アリゾナ」と「オクラホマ」を除いた3隻は浅い水深が幸いし、引き揚げると被害の少なか
った工場で修理・改装し、後に戦線に復帰している。

 日米交渉のとき、近衛文麿(このえふみまろ)首相に海軍の対米戦の持続能力を問われた山本司令長官は「1年か
1年半は存分に暴れてみせるが、その後は…」として戦争回避の努力を求めたといわれている。

 そんな山本司令長官が恐れていたのは戦いに直面した場合のアメリカ国民の勇気であり、けた違いの工業力の
差だった。そして不安視していた通り、宣戦布告が開戦1時間後というまずい外交も手伝った。

 8日、ルーズベルト大統領は議会に日本への宣戦布告の同意を求めると、これまで戦争に消極的だった上院、
下院も圧倒的多数で認めたため、以後、太平洋と欧州の両面での戦いに突入する。

 そのときの合言葉となったのが、「リメンバー パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」だった。(園田和洋)

10名無しさん@お腹いっぱい。2015/05/05(火) 07:53:03.57ID:6NASRlU6
2015.5.4 07:00更新
【安保改定の真実(1)】
ホテル地下の極秘核シェルター アイクが恐れた米ソ核戦争 「共産主義者はサーベルを鳴らし続けた…」

 米国の首都ワシントンから西南西に車で4時間あまり。アパラチア山脈の森を分け入ると唐突に視界が開け、
ホワイトハウスを彷彿させる白亜の建造物が現れる。ウェストバージニア州ホワイト・サルファー・スプリングスの
「グリーンブライヤー」。歴代大統領が避暑地として利用したことで名高い高級ホテルだが、この地下に連邦議会
の巨大な核シェルターが存在することは、1992年5月にワシントン・ポスト紙がスクープするまで国家のトップ
シークレットだった。
 バンカー(掩蔽壕)と呼ばれるこの核シェルターは、厚さ1・5メートルのコンクリートで覆われ、地下3階建て。
ホテル内壁などに偽装された4カ所の鋼鉄製扉から出入りでき、居住スペースのほか、会議室や食堂、研究室、
診療所、放送スタジオまで完備されている。発電機3基と約30万リットルの水タンクを備え、議員スタッフを含む
1100人が2カ月以上暮らすことが可能だという。

 施設の維持・管理を担う数人の政府要員は「テレビ修理工」を名乗った。78年からピアニストとしてホテルで
働き、現在は広報担当のジェシカ・ライト(63)は、事務所の古ぼけたブラウン管テレビ2台を指さしながらこう語った。
 「ホテルで働く人たちも本当に修理工だと信じ込んでいたんです。このようにテレビもたくさんありましたし…」

 この核シェルター建設を提案したのは、第34代大統領、ドワイト・アイゼンハワー(アイク)だった。第二次世界大戦
時に欧州戦線の連合国軍最高司令官としてノルマンディ上陸作戦を成功させた英雄であり、徹底した反共主義者
でもあった。
 56年3月、上院院内総務のリンドン・ジョンソン(後の第36代大統領)ら議会指導者はアイクの提案に同意し、
ホテル経営会社と「米議会にとって死活的に重要な事項」に関わる秘密契約を結んだ。計画は「グリーク・アイランド
(ギリシャ島)」というコードネームで呼ばれ、59年に着工、61年に完成した。
 アイクが核シェルター建設を急いだのは、米ソ核戦争の危機が迫っていると判断したからだった。

 ソ連の最高指導者であるニキータ・フルシチョフは56年2月、第20回ソ連共産党大会で、53年に死去するまで
独裁制を敷いたヨシフ・スターリンを批判し、米国との平和共存路線を打ち出した。国際世論はこれを「雪解け」と
歓迎したが、アイクは決して信じなかった。回顧録ではフルシチョフをこう酷評している。
 「彼は世界革命と共産主義支配というマルクス主義理論への忠誠により盲目となっていた。彼にとって世界の諸
国民の将来の幸福などは全くどうでもよく、共産主義思想実現のため彼らを組織的に利用することだけを考えているのだ」

 50年代後半から60年代にかけて米ソ核戦争は切迫した脅威だった。国務長官のジョン・ダレスは54年1月、ソ連
が欧州に侵攻すれば、圧倒的な核戦力で報復する「大量報復戦略」を宣言したが、ソ連が米本土を核攻撃する能力
を持てば、この戦略は「絵に描いたモチ」となりかねない。

 「(連合国軍総司令官の)ダグラス・マッカーサーは朝鮮戦争で核兵器の使用を検討しました。アイクも同様に地域
紛争が米ソ戦争に拡大しかねないと考えたのでしょう。そんな事態となっても議会という制度、そして憲法の枠組みを
残さねばならないのです」
 グリーンブライヤー専属の歴史家(博士)のロバート・コンテ(68)はこう解説した。
                × × ×
 57年に入ると、アイクを震撼させるニュースが次々に飛び込んできた。
 8月26日、ソ連は大陸間弾道ミサイル(ICBM)実験成功を発表した。10月4日には人類初の人工衛星「スプート
ニク1号」、11月3日に「同2号」の打ち上げを成功させた。これはワシントンを含む米全土がソ連のICBMの射程圏
に入ったことを意味する。これで戦略爆撃機を大量保有することにより優位性を保っていた米国の核戦略は覆った。
アイクは回顧録に怒りをぶつけた。

11名無しさん@お腹いっぱい。2015/05/05(火) 07:53:45.81ID:6NASRlU6
 「スプートニクは米国民の心理的な弱さを露呈させた。共産主義者たちは騒乱を扇動し、サーベルを鳴らし続けた…」

 フォード財団のローワン・ゲイサー率いる諮問機関「安全保障資源パネル」は11月7日、「核時代における抑止と生き
残り」と題した報告書をまとめた。

 59年末までにソ連が核弾頭を搭載したICBM100発を米国に向け発射可能になると推計するショッキングな内容
だった。米兵力の脆弱さを指摘し、大量報復戦略の有効性にも疑問を投げかけ、「われわれの市民は無防備状態に
置かれる」として大規模核シェルター建設などを提言した。

 ゲイサーから報告書を受け取ったアイクは動揺を抑えるように「われわれはパニックに陥ってはならないし、自己満足
をしてもいけない。極端な手段は避けるのだ」と語り、報告書を極秘扱いにするよう命じた。ダレスも、とりわけ核シェル
ター建造に関する部分を問題視し「公表すれば欧州の友人(同盟国)を見限ることになる」と述べた。

 11月7日夕、アイクはホワイトハウスの執務室からテレビとラジオで国民向けに演説し「核兵器の分野では質も量も
ソ連に大いに先んじている」と強調した。それでも「衛星打ち上げに必要な強力な推進装置により証明されたソ連の
先進技術や軍事技術の能力には軍事的重要性がある」と認めざるを得なかった。(

12名無しさん@お腹いっぱい。2015/05/05(火) 07:57:49.83ID:6NASRlU6
2015.5.4 11:00更新
【安保改定の真実(2)】
動き出した岸信介 「経済など官僚にもできる。首相ならば…」 ダレスに受けた屈辱バネに

 スプートニク・ショック後、第34代大統領、ドワイト・アイゼンハワー(アイク)は戦略転換を迫られた。アイクはもともと、
米軍の通常兵力を削減し、余った予算をICBMやSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)など戦略兵器の開発・増強に
回す「ニュールック戦略」を進めていたが、この動きをさらに加速。63年までにICBMを80基に増やす計画も130基
に上方修正した。

 そしてアイクは同盟国との関係強化にも躍起になった。
 わけても日本の戦略的重要性は抜きんでていた。日本海を隔ててソ連、中国、北朝鮮など東側陣営と対峙(たいじ)
しているからだ。
 駐日米大使のジョン・アリソンは、ダレスに「日本は独ルール地方と並ぶ工業地帯であり、もし共産主義勢力に乗っ
取られれば、われわれは絶望的な状況に陥る」と報告していた。

 にもかかわらず、日本には、冷戦下の切迫した国際情勢を理解する者はほとんどいなかった。政界は数合わせの
政局に明け暮れ、メディアも安全保障や軍事には無知だった。大統領特別顧問のフランク・ナッシュはこう例えている。

 「日本は不思議の国のアリスの夢の世界のような精神構造に置かれている」

 ただ、昭和32(1957)年2月に第56代首相に就任した岸信介は違った。

 岸は戦前に革新官僚として統制経済を牽引(けんいん)し、東條英機内閣で商工相を務めたことから、戦後はA級
戦犯として巣鴨拘置所に収監され、不起訴となった経歴を持つ。国際情勢を見誤れば、国の行く末が危ぶまれること
は骨身に染みていたのだろう。

 それでも岸が就任直後に掲げた公約は、汚職・貧乏・暴力という「三悪」の追放だった。安全保障に関しては「対米
関係の強化」「日米関係の合理化」という言葉しか使っていない。

 その裏で、岸は就任当初から旧日米安全保障条約改定に狙いを定めていた。

 昭和26(1951)年9月のサンフランシスコ講和条約と同時に締結した旧安保条約は、在日米軍に日本の防衛義務
がないばかりか、条約期限も事前協議制度もなかった。しかも日本国内の内乱に米軍が出動できる条項まであった。
岸はかねて「これでは米軍が日本全土を占領しているような状態だ」と憂慮していた。

 女婿で毎日新聞記者から秘書官となった安倍晋太郎(後の外相、現首相・安倍晋三の父)が「得意の経済で勝負した
方がよいのではないですか」と進言すると、岸は鼻で笑った。

 「首相とはそういうものじゃない。経済は官僚がやってもできる。何か問題が生じたら正してやればよいのだ。首相で
あるからには外交や治安にこそ力を入れねばならんのだ」

 にもかかわらず、安保条約改定を掲げなかったのは対米交渉の難しさを実感する苦い経験があったからだ。

 昭和30(1955)年8月、岸は民主党幹事長として外相の重光葵の訪米に同行した。国務長官のジョン・ダレスとの
会談で、重光は唐突に「日本は現行条約下で増大する共産主義の宣伝工作に立ち向かわなければならない。共産
主義と戦うための武器がほしい。これを条約改定で得たい」と安保改定を求めた。だが、ダレスはけんもほろろに言い
放った。

 「偉そうなことを言うが、日本にそんな力はあるのか? グアムが攻撃されたとき、日本は米国を助けに来られるのか?」

 屈辱ではあったが、やりとりを聞きながら岸は「ダレスが言うのももっともだが、やはり日米安保条約は対等なものに
改めなければならない」と感じ入った。

 以後、岸は安保条約改定を最大の政治課題と位置づけ、首相就任直後から着々と布石を打っていくが、日米両政府
が公式に改定交渉で合意したのは昭和33(1958)年9月11日。その秘密主義は徹底していた。

13名無しさん@お腹いっぱい。2015/05/05(火) 07:58:46.16ID:6NASRlU6
 アイクは、岸の首相就任を心から歓迎した。日米同盟を強化させる好機だと考えたからだ。岸は戦前に駐日米大使
を務めたジョセフ・グルーらと親交があったこともあり、岸の去就はかねて米国から注目されていたが、アイクには岸の
頑強な「反共」「保守」の姿勢が頼もしく映ったようだ。

 条約改定は一国の意向では動かない。安全保障に関わる事案はなおさらだ。岸とアイク。この極めて個性の強い
日米首脳がくしくもそろい踏みとなったことで安保条約は改定に向けて動き出した。(

14名無しさん@お腹いっぱい。2015/05/05(火) 08:06:35.96ID:Y6S7zBfE
2015.5.5 07:00更新
【安保改定の真実(3)】
岸とアイクが示した日米新時代 「ゴルフは好きな相手としかできないものだ」

 昭和32(1957)年6月19日朝、米ワシントンに到着した第56代首相、岸信介がその足でホワイトハウスに
向かうと、第34代大統領のドワイト・アイゼンハワー(アイク)が笑顔で出迎えた。

 アイク「午後は予定がありますか?」

 岸「別にありませんが…」

 アイク「そうか。それではゴルフをしよう!」

 サプライズはこれだけではなかった。ホワイトハウスでの昼食会では、国務長官のジョン・ダレスが「国連経済社会
委員会の理事国に立候補する気はないか?」と持ちかけ、応諾すると「米国は全力を挙げ応援する」と約束してくれた。

 昼食後、岸とアイクらはワシントン郊外の「バーニング・ツリー・カントリークラブ」に向かった。岸の体格にぴったりあった
ベン・ホーガン製のゴルフセットも用意されていた。

 アイクは官房副長官の松本滝蔵と組み、岸は上院議員のプレスコット・ブッシュ(第41代大統領のジョージ・H・W・
ブッシュの父、第43代大統領のジョージ・W・ブッシュの祖父)と組んだ。スコアはアイク74、松本98、岸99、ブッシュ72だった。

 1ラウンド終えてロッカー室に行くと、アイクは「ここは女人禁制だ。このままシャワーを浴びようじゃないか」と誘い、
岸と2人で素っ裸でシャワー室に向かい、汗を流した。

 ロビーに戻ると新聞記者に囲まれ、プレーの感想を聞かれた。アイクは笑顔でこう応じた。

 「大統領や首相になると嫌なやつとも笑いながらテーブルを囲まなければならないが、ゴルフだけは好きな相手と
でなければできないものだ」

 まさに破格の歓待だった。アイクには、先の大戦を敵国として戦い、占領・被占領の立場をへて強力な同盟国となった
ことを内外にアピールする狙いがあったが、それ以上に「反共の同志」である岸に友情を示したかったようだ。

 外相を兼務していた岸は21日までの3日間でアイクやダレスらと計9回の会談をこなした。アイクも交えた最後の会談
で、岸はダレスにこう切り出した。

 「これで日米は対等な立場となったが、1つだけ非常に対等でないものがある。日米安全保障条約だ」

 ダレスは、昭和26(1951)年9月にサンフランシスコ講和条約と同時締結した旧安保条約を国務省顧問として手がけ
ただけに条約改定に否定的だった。昭和30(1955)年に外相の重光葵が条約改定を求めた際は「日本にそんな力は
あるのか」と一蹴している。だが、今回は苦笑いをしながらこう応じた。

 「これは一本取られた。確かに安保条約改定に取り組まねばならないが、政治家だけで話し合って決めるわけには
いかない。日米の委員会を設け、今の条約を変えずに日本の要望を入れられるか、改正しなければならないかを検討
しよう」

 会談後の共同声明は、岸が唱える「日米新時代」が骨格となり「日米両国は確固たる基礎に立脚し、その関係は
今後長期にわたり、自由世界を強化する上で重大な要素をなす」とうたった。安保条約に関しても「生じる問題を検討
するための政府間の委員会を設置することで意見が一致した」と盛り込まれたが、会談で条約改定まで議論が及んだ
ことは伏せられた。

 岸−アイク会談がこれほど成功したのはなぜか。

 岸が、アイクのニュールック戦略に応えるべく、訪米直前の6月14日に第一次防衛力整備三カ年計画を決め、
“手土産”にしたこともあるが、それ以上の立役者がいた。

15名無しさん@お腹いっぱい。2015/05/05(火) 08:10:59.28ID:Y6S7zBfE
 岸内閣が発足した昭和32年2月25日、駐日米大使に就任したダグラス・マッカーサー2世だった。

 連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官だったダグラス・マッカーサーの甥だが、軍人ではなく外交官の道を選び、
北大西洋条約機構(NATO)軍最高司令官だったアイクの外交顧問を務めた。欧州での外交歴が長く知日派では
ないが、前任のジョン・アリソンと違い、ホワイトハウスに太いパイプを持っていた。

 だが、就任直前の1月30日に予期せぬ大事件が起きた。群馬県の米軍相馬ケ原演習場で米兵が空薬莢を集めて
いた主婦を射殺した「ジラード事件」だ。マッカーサーは就任前から対応に追われることになったが、おかげで岸と親交
が深まった。叔父と違って物腰が柔らかく理知に富むマッカーサーは「反共」という共通点もあり、岸とウマがあったようだ。

 4月13日、岸はマッカーサーと秘密裏に会い、2通の文書を渡した。

 1つは沖縄と小笠原諸島の10年以内の返還を求める文書。もう1つは安保条約改定を求める文書だった。マッカーサ
ーは即座にダレス宛てに公電を打った。

 「日本との関係はターニングポイントを迎えた。可及的速やかに他の同盟国並みに対等なパートナーにならなければ
ならない」
 マッカーサーは、ジラード事件を通じて、日本でソ連が反米闘争を後押しし「国連加盟により米国と離れても国際社会
で孤立することはない」として日本の「中立化」を促す工作を行っていることを知った。公電にも、中立化工作に危機感
をにじませている。

 ダレスは難色を示したが、マッカーサーは5月25日付で書簡を送り、「岸は反共主義者であり、米国の核抑止力の
重要性にも理解を示している。岸とは仕事ができる」と再考を促した。

 アイクの特命で米軍の海外基地に関する検証を続けていた大統領特別顧問のフランク・ナッシュも6月5日、ダレス
に「岸に対する賭けは『最良の賭け』であるばかりか、『唯一の賭け』なのだ」と進言した。

 ダレスの心境も次第に変わっていった。岸の訪米を目前に控えた6月12日、ダレスはアイク宛てのメモでこう進言した。

 「岸は戦後日本で最強の政府指導者になる。注意深い研究と準備が必要だが、現在の安保条約に替わり得る相互
安保協定に向けて動くことを岸に提案する時が来た」

 協定という表現ではあるが、安保条約改定に向けての大きな一歩となった。

 岸は、饒舌で気さくな人柄で知られる一方、徹底した秘密主義者でもあった。首相退陣後は取材にもよく応じ、多数
の証言録や回顧録が残るが、マッカーサーとの秘密会談などにはほとんど触れていない。

 政府内でも岸はほとんど真意を明かさなかった。外務省北米2課長として岸−アイク会談に同席した東郷文彦(後
の駐米大使)さえも回顧録に「首相自身も恐らく条約改定の具体的な姿まで描いていたわけではなかったのでは
ないか」と記している。

 だが、岸はマッカーサーと秘密裏に会合を重ねていた。昭和32年末には、岸が「安保条約を再交渉する時がきた」
と切り出し、その後は具体的な改定案まで検討していた。マッカーサーは昭和33(1958)年2月18日に条約改定
草案を国務省に送付している。

 ところが、色よい返事はない。業を煮やしたマッカーサーは草案を携えてワシントンに乗り込んだ。

 「ダグ、私が交渉した条約に何か問題でもあるのかね?」

 ダレスは開口一番、冷や水を浴びせたが、もはや改定する方向で腹を固めていた。アイクはこう命じた。

 「議会指導者たちに会い、彼らがゴーサインを出したら交渉は君の責任でやってくれ」

 日本に戻ったマッカーサーはすぐに岸と面会した。吉報にさぞかし喜ぶかと思いきや、岸は浮かない表情でぼやいた。
「吉田茂(第45、48〜51代首相)が改定に乗り気じゃないんだ…」

 マッカーサーはすぐに米陸軍のヘリコプターで神奈川県大磯町の吉田邸に飛んだ。門まで出迎えた吉田は開口
一番こう言った。

16名無しさん@お腹いっぱい。2015/05/05(火) 08:13:03.79ID:Y6S7zBfE
 「私が交渉した条約に何か問題でもあるのかね?」

 マッカーサーは「ダレスからも全く同じことを言われましたよ」と返答すると2人で大笑いになった。吉田も条約改定
の必要性は十分理解していたのだ。

 この間、外務省はずっと蚊帳の外に置かれていた。

 外務省が「話し合いの切り出し方」をまとめたのは昭和33年5月になってからだ。しかも条約改定ではなく政府間の
交換公文で処理する方針だった。

 昭和32年7月の内閣改造で外相に就任した藤山愛一郎にも岸は秘密を貫いた。

 藤山は、昭和33年5月の衆院選後に東京・渋谷の岸邸を訪ね「安保改定をやろうじゃありませんか」と持ちかけた
ところ、岸は「やろうじゃないか」と応諾したと回顧録に記している。岸とマッカーサーがすでに具体的な改定案まで
検討していることを全く知らなかったのだ。

 岸が安保条約改定を政府内で明言したのは、昭和33年8月25日に東京・白金の外相公邸で開かれた岸−藤山
−マッカーサーの公式会談だった。マッカーサーが、旧安保条約の問題点を改善するため、(1)補足的取り決め
(2)条約改定−の2つの選択肢を示したところ、岸は即答した。

 「現行条約を根本的に改定することが望ましい」

 交換公文などによる「補足的取り決め」での改善が現実的だと考えていた外務省幹部は仰天した。

17名無しさん@お腹いっぱい。2015/05/06(水) 01:09:45.53ID:6HyqB6J/
http://6928.teacup.com/kongonoyotei/bbs ( 閲覧パス 2034 )
秋にリーマン2で、5年内に世界中の都市部で大陥没現象で行政インフラ
完全停止、3ヶ月くらい。リアル北斗。空気感染型エボラの世界的大流行
バタバタ人が消えてゆく。でも頑張ろうぜ。

18名無しさん@お腹いっぱい。2015/05/07(木) 14:35:09.35ID:8LnoxxVQ
2015.5.7 08:44更新
【湯浅博の世界読解】
傲慢中国黙らせた「強い日米同盟」、東南アジア諸国が歓迎 「歴史和解モデル」突きつけられた韓国

 昨秋、チェイニー副大統領の首席補佐官だったスクーター・リビー氏に会って、「米国の次期大統領は誰が
ふさわしいか」と聞いてみた。即答で戻ってきた答えには仰天した。彼は平然と「シンゾウ・アベ」と言って
のけたのだ。(SANKEI EXPRESS)

 もちろん、冗談には違いないが、オバマ大統領に対する不満と合わせ、頭の片隅にある思いの一端をの
ぞかせたのだろう。その理由をリビー氏は安倍晋三首相のもつ指導力、対外的な戦略観、組織の掌握力
などを次々に挙げた。

 首相による米議会演説後のウォールストリート・ジャーナル紙には、共和党大統領候補のルビオ上院議員
が「強い日米同盟を必要とするアジア」とのテーマで寄稿し、安倍訪米の意義を描いた。首相の領有権に
対する「法の支配」重視、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)への取り組みを含め、「米国と目標を共有
しており、全面的に支援すべきだ」と後押しする。韓国系の代理人である下院議員らが、慰安婦に言及しない
ことを「恥ずべきもの」と述べたが、限られた少数派にすぎない。

 日米関係が「不動の同盟」である限り、中国は対日姿勢を抑制せざるを得ず、韓国は孤立感から軌道修正
を迫られる。そして東南アジアの国々は、傲慢な中国との均衡のために、強い日米同盟を歓迎した。

 今回の日米首脳会談が明示したのは、同盟が不断の変化を遂げており、日米分断を策しても無駄であるとの
強力なメッセージであった。中国が日米同盟を「冷戦期の遺物」(洪磊外務省報道官)といったところで、部外者
の希望的観測にすぎない。

 当のオバマ大統領は、歓迎式典で「同盟は時代に合った形で広げ、未来に照準を合わせる」と変化を強調し、
安倍首相が「日米関係は不断に発展」と応じているからだ。その具体化が、合意した「日米防衛協力のための
指針(ガイドライン)」の再改定であり、日米安保条約の改定に匹敵するものなのだ。

 中国は習近平国家主席が米国に持ち掛けた「新型の大国関係」が、排除されたと感じているだろう。米国では
すでに、マケイン上院軍事委員長ら超党派有力議員が国務、国防長官あてに共同書簡を送り、中国の行動を
阻止する戦略をとるよう持ち掛けた。権威ある外交問題評議会も最近、米軍の増強と同盟国との軍事協力を含む
「対中大戦略」を構築するよう要請している。

 最近のオバマ政権は、中国との競争を隠さなくなってきた。中国主導のアジアインフラ投資銀行への不参加を
同盟国によびかけ、TPPに関連して「国際経済のルールは中国に作らせてはならない」との意思を明確に表明
している。

 では、韓国にあっては、日米共同声明が敵対国から不動の同盟へ転換表明したことをどう感じたか。感情的な
対日批判を繰り返す韓国に、日米は「和解モデル」を突きつけたといえる。朴槿恵大統領は4日の会議で「歴史
問題に埋没せず」に、安全保障を切り離す現実路線で対応するとの立場を表明せざるを得なかった。

 日米同盟の分断が困難である以上、中国は今後、日米韓から韓国の切り離しをもくろむだろう。日米は逆に、
韓国に対し米中双方によい顔をするバランス外交の放棄を迫る。力不足のバランス外交は、同盟を阻害するだけ
だからである。(東京特派員)

19名無しさん@お腹いっぱい。2015/05/07(木) 14:46:40.78ID:8LnoxxVQ
2015.5.6 07:00更新
【安保改定の真実(4)】
暗躍するソ連のKGB 誓約引揚者を通じて各界で反米工作 岸内閣を“核”で恫喝 

 昭和35(1960)年より少し前だった。産経新聞社の駆け出しの政治記者だった佐久間芳夫(82)は、東京・
麻布狸穴町(現港区麻布台)のソ連大使館の立食パーティーで、3等書記官を名乗る若い男に流暢な日本語で
声をかけられた。とりとめもない会話を交わした後、別れ際に「ぜひ今度一緒にのみましょう」と誘われた。

 数日後、男から連絡があり、都内のおでん屋で再会した。男は日米安全保障条約改定や日ソ漁業交渉などの
政治案件について執拗に探りを入れた後、声を細めてこう切り出した。

 「内閣記者会(首相官邸記者クラブの正式名称)の名簿をくれませんか?」

 佐久間が「それはできないよ」と断ると、男は「あなたはいくら給料をもらっていますか。家庭があるなら生活が
苦しいでしょう」と言い出した。

 佐久間は「失礼な奴だ」と思い、それっきり男とは会っていないが、もし要求に応じていたらどうなっていたか。
半世紀以上を経た今も、思い出すと背筋に冷たいものが走る。

 昭和31(1956)年10月19日、第52〜54代首相の鳩山一郎が、モスクワでソ連首相のブルガーニンと共同宣言
に署名し、日ソの国交が回復した。

 これを機に、ソ連は在日大使館や通商代表部に諜報機関兼秘密警察の国家保安委員会(KGB)要員を続々と
送り込み、政財界や官界、メディアへの工作を続けていた。昭和32(1957)年2月に岸信介が第56代首相に就任した
後は動きを一層活発化させた。

 警視庁外事課外事1係長だった佐々淳行(84)=初代内閣安全保障室長=は100人超の部下を指揮してKGB
要員の行動確認を続けていた。

 当時、警視庁が把握したKGB要員は三十数人。その多くが3等書記官など低い身分を偽っており、驚いたことに
トップは大使館付の長身の運転手だった。

 KGBの工作対象は政界や労組、メディアなど多岐にわたったが、佐々はシベリアに抑留され、ソ連への忠誠を
誓った「誓約引揚者」との接触を注視した。シベリアで特殊工作員の訓練を積みながらも帰国後は口をつぐみ、
社会でしかるべき地位についたところでスパイ活動を再開する「スリーパー」である可能性が大きかったからだ。

 外事課ベテラン捜査員はある夜、KGB要員が都内の神社で日本人の男と接触するのを確認した。男の身元を
割り出したところ、シベリアに抑留された陸軍将校だった。男は後に大企業のトップに上り詰め、強い影響力を有す
るようになった。佐々は当時をこう振り返った。

 「誓約引揚者は社会党や労組などに相当数が浸透していた。安保闘争は『安保改定を阻止したい』というソ連の
意向を受けて拡大した面は否定できない」

 昭和32(1957)年6月の第34代米大統領、ドワイト・アイゼンハワー(アイク)と岸の会談は、日米同盟の絆を
内外に印象づけたが、ソ連は危機感を募らせた。鳩山や第55代首相の石橋湛山が対米自主路線を掲げて、ソ連に
好意的だっただけになおさらだった。

 もし安保条約が改定され、日本の再軍備が進めば、オホーツク海〜日本海〜東シナ海を封じ込めるように「自由
主義圏の鎖」が完成する。それだけは避けたいソ連は日本人の“核アレルギー”に目をつけた。

20名無しさん@お腹いっぱい。2015/05/07(木) 14:48:11.58ID:8LnoxxVQ
 ソ連は昭和33(1958)年5月15日、日本政府に、米国の核兵器が日本国内に存在するか否かを問う口上書を
突きつけた。日本がこれを否定してもその後2度同じ口上書で回答を求めた。

 「日本国領域内に核兵器が存在することは、極東における戦争の危険の新たな源泉となる」

 口上書でソ連は、核攻撃をちらつかせつつ「日本国の安全の確保は、中立政策を実施する道にある」として「中立
化」を迫った。

 日米間で安保条約改定交渉が始まるとソ連外相のアンドレイ・グロムイコは昭和33年12月2日、駐ソ大使の門脇
季光を呼び出し、「新日米軍事条約の締結は極東の情勢をより一層複雑化し、この地域における軍事衝突の危険を
更に深めるだけである」とする覚書を手渡した。

 覚書では「中立」という言葉を4回も使い、米国主導の「侵略的軍事ブロック」からの離脱を要求。その上でこう恫喝した。

 「大量殺戮兵器は、比較的小さい領土に密度の大きな人口と資源の集中度の大きい国家にとって特に生死の危険となる」

21名無しさん@お腹いっぱい。2015/05/07(木) 14:54:21.76ID:8LnoxxVQ
2015.5.7 07:00更新
【安保改定の真実(5)】
ソ連の「中立化」戦術が奏功 政界・メディアを籠絡 闇の司祭・コワレンコは元朝日記者と「兄弟分」だった…

 「中立化」こそがソ連の対日工作のキーワードだった。露骨に社会主義圏に入るべきだとは言わず「中立化」と
いう言葉を用いた効果は絶大だった。

 学者・文化人の多くがまだ社会主義への幻想を抱いていた時代。終戦から15年しか経っておらず、国民の反米
感情が強かった。安保条約改定に対して「米国の戦争に巻き込まれる」という宣伝は次第に効果を上げていった。

 だが、ソ連が恫喝を強めれば強めるほど、岸は対米関係強化に突き進んだ。

 昭和35(1960)年1月19日、岸は、病に倒れたジョン・ダレスに代わり国務長官となったクリスチャン・ハーター
と新安保条約に調印した。アイクとの会談後は共同声明で「新安保条約が極東の平和と安全を大いに強化し、
全世界の平和と自由を増進すると確信している」とうたった。

 ソ連は怒り狂った。同年4月に漁業交渉のため訪ソした農相の福田赳夫(後の第67代首相)は、最高指導者で
首相のニキータ・フルシチョフと会談した。

 フルシチョフは鳩山政権時代を懐かしみ「日本はいま安保で騒いでいるが、岸が悪い。鳩山だったらあんなに
ソ連に挑戦的なことはしないだろう」と論難した。福田が反論すると、フルシチョフは小声で「キシ、キシ」と呟いた。
ロシア語で「キシ」は「腐る」の意。こんな子供じみた悪態をつくほど岸は目障りな存在だった。

 ソ連が反発を強めるにつれ、朝日新聞を中心に多くのメディアは安保改定への批判一色となっていった。「日本は
中立化すべき」「安保改定すれば米国の戦争に巻き込まれる」−。スローガンまでもなぜかソ連の主張とそっくりだった。

 そもそもメディアは安保改定には無関心だった。

 「日米安保条約を改定/近く米側と交渉/藤山外相 具体案の作成指示/片務性を解消へ」

 産経新聞朝刊1面をこのスクープが飾ったのは昭和33年7月1日だった。記事を書いたのは産経新聞政治部記者
の松平吉弘(86)。記事では、旧安保条約の問題点を指摘し、国民が米軍駐留のメリットを享受できるよう片務性を
解消する方向で改定する方向だと報じた。同時に外相の藤山愛一郎が渡米し、米側と正式協議に入る見通しだと伝えた。

 岸は昭和32年2月の首相就任直後から駐日米大使のダグラス・マッカーサー2世と水面下の交渉を始めたことを
考えると決して早いとは言えないが、各紙はこのニュースを黙殺した。

 7月3日の参院外務委員会で社会党の羽生三七は産経新聞を片手に記事の真偽を質した。藤山は「忌憚なく私が
考えているところを米側に率直に言ってみる」と事実関係を大筋で認めたが、各紙はこの答弁を小さく報じただけだった。

 記事通り、藤山は昭和33年9月11日、ワシントンでダレスと会談し、安保条約改定の交渉入りを合意した。各紙が
安保条約改定について大きく報じ始めたのは、この前後からだった。

 1950年代後半から80年代にわたり、ソ連の対日工作の責任者は、ソ連共産党中央委員会国際部副部長などを
務めたイワン・コワレンコだった。

 「闇の司祭」の異名を持つコワレンコはソ連崩壊後、ジャーナリストの加藤昭の取材に応じ、加藤の監修で回顧録を残した。


    

22名無しさん@お腹いっぱい。2015/05/07(木) 14:56:59.68ID:8LnoxxVQ
 コワレンコは、「灰色の枢機卿」と呼ばれたソ連共産党イデオロギー担当書記のミハイル・スースロフの意向を受け、
「日本の中立化」を目指す民主統一戦線を作るべく政界や労働界を奔走したことを回顧録に赤裸々に綴った。安保
闘争についても「日本の民主勢力にかなり大きな援助を与えた」と明かしている。

 ソ連と日本共産党はギクシャクした関係が続いたため、コワレンコが選んだ新たなパートナーは社会党だった。回顧録
でも鈴木茂三郎、浅沼稲次郎、勝間田清一、石橋政嗣、土井たか子ら歴代委員長を「ともに仕事をして実り多かった
愛すべき闘志たち」と絶賛している。日ソ友好議員連盟などを通じて元労働相の石田博英ら自民党議員にも接触を
続けたという。

 メディア工作にも余念がなかった。

 特に朝日新聞政治部記者で後にテレビ朝日専務になった三浦甲子二とは「兄貴」「弟」と呼び合う仲で「よき友であり
同志」だった。「こうした協力者を旧ソ連ではアジェンダ・ブリヤーニ(影響のエージェント)と呼び、三浦の他にも財界人
や学者等に多数いた」と明かしている。

 同じく朝日新聞のモスクワ支局長、編集局長を経て専務となった秦正流も親しく「ジャーナリストとして非凡な才能の
持ち主」「秦の下で朝日新聞の内容は一層よくなった」と称えた。昭和52(1977)年に朝日新聞は、フルシチョフ後の
最高指導者、レオニード・ブレジネフとの単独会見を実現させたが、これもコワレンコがすべて取り仕切ったという。

 加藤は産経新聞の取材に応じ、こう解説した。

 「ソ連にとって中立化とは傀儡政権を作るという意味だ。その候補を探すのがコワレンコの役割だった。結局、社会党
は日和見で力にならないから彼は自民党にシフトしていく。この時代は、米ソ冷戦の枠組みで国際情勢がすべて動いた。
安保改定も安保闘争も、米ソ冷戦のあだ花にすぎないのではないか」

23名無しさん@お腹いっぱい。2015/05/08(金) 08:07:25.25ID:SAJwwCF7
2015.5.8 07:00更新
【安保改定の真実(6)】
岸信介の誤算 社会党の転向と警職法改正で一転窮地に 禅譲密約で乗り切ったが…

 昭和33(1958)年4月18日、第56代首相の岸信介は、社会党委員長の鈴木茂三郎との会談で、野党の内閣
不信任決議案提出を受け、衆院を解散することで合意した。25日、岸は約束通り衆院を解散した。この「話し合い
解散」を受けた第28回衆院選(5月22日投開票)は、保守合同と社会党再統一による55年体制後初の総選挙と
なった。

 この時点で岸は、日米安全保障条約を改定する意向を外務省にも漏らしていなかったため、争点のない選挙と
なった。結果、自民党は絶対安定多数の287議席を得て大勝。他の議席は社会党166、共産党1、諸派1、無所属
12だった。

 6月12日、第57代首相に指名された岸は直ちに組閣に入り、実弟の佐藤栄作(第61〜63代首相)を蔵相に、
池田勇人(第58〜60代首相)を国務相に、三木武夫(第66代首相)を経企庁長官に起用した。自民党では副総裁
に大野伴睦、幹事長に川島正次郎、総務会長に河野一郎、政調会長には腹心の福田赳夫(第67代首相)を充てた。
挙党態勢の強力な布陣だといえる。

 「総選挙に示された国民の意志は、大多数が現実的かつ進歩的な政治を信頼し、急激かつ冒険的な変革を欲しない
ということであります。(略)わが国の民主政治の健全な発達を図るには、極左、極右の活動を抑制せねばなりません。
最近ややもすれば、公然と法の秩序を無視し、集団の圧力によって国会活動を不当に掣肘するような傾向が見受けら
れますことは極めて遺憾であります。このような非民主的な活動には毅然たる態度で臨みます」

 6月17日の特別国会で、岸は所信表明演説で社会党や共産党との対決姿勢を鮮明に打ち出した。国民の信を得た
ことによる自信の表れだと言えるが、どこか奢(おご)りも見てとれる。

 そして満を持して日米安全保障条約改定に取りかかった。9月11日に外相の藤山愛一郎が訪米し、国務長官の
ジョン・ダレスと安保条約改定で合意、10月4日に正式交渉が始まった。

 これが岸の絶頂期だった。すべて順風満帆で死角はないように見えた−。

 後に「昭和の妖怪」と呼ばれる岸は、権謀術数をめぐらす老獪な政治家というイメージがあるが、根は楽天家だった。
安保条約改定についても、米軍の占領状態が事実上続く旧安保条約をより対等に改定するのだから、与野党はもと
より、大多数の国民が支持してくれると考えていた。

 そう思うのも無理はない。社会党でさえも安保条約改定を声高に求めていたからだ。

 「8千万民族は、われわれの同胞は、他民族の軍政下にあることは忘れてはなりません。不平等条約の改正をやる
ことが現在日本外交に与えられた大きな使命なり、と私は断ぜざるを得ないのであります」

 社会党書記長の浅沼稲次郎(後の委員長)は昭和32(1957)年2月27日の衆院本会議の代表質問で、首相に
就任したばかりの岸をこう質した。

 委員長の鈴木も同月の衆院本会議で「日本民族独立のために、不平等条約の改廃を断行するため、力強く一歩を
踏み出す決意を持っていないか」と迫った。後に社会党委員長として「非武装中立論」を唱える石橋政嗣も同年11月
の衆院内閣委員会で「不平等条約を平等なものにしたいという国民の熱願」として安保条約改定を求めている。

 とはいえ、条約改定は相手国との合意なくしてできない。まして米国相手であり安全保障という国家の存亡にかか
わる条約だ。岸は機が熟すまで安保条約改定に関して曖昧な答弁を続けざるを得なかった。回顧録でも岸は「安保
条約の改定については、むしろ私の方が慎重であった」と述懐している。

 そもそも岸は、若い世代は安保条約改定を強力に支持してくれるはずだと信じていたふしがある。昭和32年6月に
第34代米大統領のドワイト・アイゼンハワー(アイク)と初会談した際、岸はこう語っている。

 「憲法改正を実現するには3分の2の議席が必要なのだが、保守政党はここ数年若者に人気がない。(旧安保条約
の不平等性により)日本は独立できていないと言い立てるナショナリズムがわき起こっているからだ…」

24名無しさん@お腹いっぱい。2015/05/08(金) 08:12:28.81ID:SAJwwCF7
 安保条約改定を支持してくれるはずだった社会党は態度を一変させた。

 すでに昭和33年5月の衆院選で、安保条約「改廃」から「廃止」に公約を変更していたが、まだ政府に改定の動き
がなかったため、争点にならなかった。

 社会党が安保条約「廃止」に転向するきっかけとなったのは、昭和32年10月のソ連の人工衛星スプートニクの打ち
上げ成功だった。これが米ソの軍事的パワーバランスを逆転させ、11月には中国国家主席の毛沢東が「東風が西風
を圧した」と宣言した。

 社会党内の左派は勢いづいた。これに前後してソ連が「日本の中立化」を促す対日工作を活発化させたこともあり、
社会党は反米路線を旗幟鮮明にしていく。

 昭和33年5月の衆院選中には、ソ連、中国の露骨な“選挙介入”もあった。

 5月2日に長崎市内で開かれた中国物産展に男が乱入し、中国国旗を踏みつけ破損させる「長崎国旗事件」が発生
すると、中国外相の陳毅は日中貿易の全面停止を通告した。ソ連が、米軍の核兵器が日本国内に存在するか否かを
問う口上書を日本政府に突きつけたのも同じ時期だった。

 昭和34(1959)年3月28日、社会党は総評などとともに「安保改定阻止国民会議」を結成し、議会制民主主義を
否定したかのような激しい反対闘争を繰り広げることになる。岸の社会党への淡い期待は完全に裏切られた。

 もう一つ大きな誤算があった。昭和33年10月8日、臨時国会に提出した警察官職務執行法(警職法)改正案だ。

 警職法は、連合国軍総司令部(GHQ)占領下の昭和23(1948)年に施行され、警察官の職務権限は大きく制限
されていた。岸は安保条約改定を控え、騒乱を避け秩序を維持するには、職務質問や所持品調べなど警察官の権限
を強める必要があると考えたのだ。

 これに先立つ7月11日、岸は駐日米大使のダグラス・マッカーサー2世と極秘裏に会った。ここで岸は、安保条約
改定に先立ち、国会に警職法改正案や防諜法案を提出し、野党・左翼勢力と対決する決意を明かした。同時に国民
年金法案や最低賃金法案も提出し、一般国民の支持を得る考えだった。

 警職法改正は、岸が就任当初から掲げる「三悪」(汚職・貧乏・暴力)追放の一環でもあったが、予想以上の反発を
招いた。
 社会党や総評などは10月16日に警職法改悪反対国民会議を結成した。戦時中の特高警察への恐怖が人々の心
に色濃く残っていた時代。「オイコラ警察ハンターイ」「デートもできない警職法」「新婚初夜に警察に踏み込まれる」−
などキャッチーなフレーズも手伝い、反対運動は一気に広がった。24日には国会周辺で8000人が抗議の提灯デモ
を行った。

 社会党が審議拒否に出ると、自民党の三木や池田、松村謙三、石井光次郎ら反主流派の領袖は「法案の無理強い
は避けるべきだ」と申し合わせた。

 「これ以上警職法で自民党内がグラつけば安保条約改定さえおぼつかなくなる」。こう考えた岸は警職法改正を断念
、法案は審議未了で廃案となった。

25名無しさん@お腹いっぱい。2015/05/08(金) 08:12:55.80ID:SAJwwCF7
 だが、この譲歩が逆に自民党内の反主流派を勢いづかせる結果となった。

 自民党内の不穏な空気を感じ取った岸は昭和33年12月、翌34年3月に予定された自民党総裁選を1月に繰り
上げた。これが「対抗馬の動きを封じる策略だ」と受け止められ、池田、三木、灘尾弘吉の3閣僚が辞表をたたきつけた。

 「私が世の中で一番嫌いな奴は三木だ。陰険だよ。あの顔つきをみてごらんなさい。あの顔を…」

 後にこう語るほど三木を嫌っていた岸にとって、少数派閥の領袖にすぎない三木が閣外に去ることは別に構わなかった。
だが、池田の後ろには、なお隠然たる影響力を持っていた元首相の吉田茂がいる。文相として教職員の勤務評定問題
などに取り組んでいた灘尾を失ったのも痛かった。

 さらに深刻だったのは、党人派の実力者である大野が池田らと呼応し、反主流派を形成しようとしていたことだった。

 窮地に陥った岸は昭和34年1月3日、静岡・熱海の静養先で大野、河野と密かに会い、大野に「次はあなたに譲る」
と明言し、政権への協力を求めた。これを受け、1月16日には東京・日比谷の帝国ホテルで岸、大野、河野に、佐藤
や右翼大物の児玉誉士夫らを加えた会合を開き、政権禅譲の密約を書面で交わした。

 これで岸はどうにか総裁の座を守ることができたが、政権の行く末には暗雲が広がっていた。

 「社会党がソ連、中共の謀略に乗せられてその使嗾(しそう)のままに動く傾向が強まってきているとき、自民党の
団結は、国家、民族の将来にとって最優先の命題である」

 岸は当時の心境を回顧録にこう綴っている。

26名無しさん@お腹いっぱい。2015/05/09(土) 07:28:58.80ID:KQEzuqul
2015.5.9 07:00更新
【安保改定の真実(7)】
先鋭化する社会党「米帝は日中の敵!」 5・19強行採決で事態一転…牧歌的デモじわり過激化 そして犠牲者が

「台湾は中国の一部であり、沖縄は日本の一部であります。それにもかかわらず、それぞれの本土から分離されている
のはアメリカ帝国主義のためだ。アメリカ帝国主義について、お互いは共同の敵とみなして戦わなければならない」

 昭和34(1959)年3月12日、社会党書記長の浅沼稲次郎(後の委員長)は中国・北京でこう演説し、万雷の拍手を浴びた。

 人民帽をかぶり意気揚々と帰国した浅沼は数日後、駐日米大使のダグラス・マッカーサー2世に面会を申し入れ、
東京・赤坂の米国大使館を訪ねた。

 ほどなくマッカーサーが現れた。浅沼が立ち上がるとマッカーサーは機先を制するように問いただした。
 「中国の共産主義者たちが言う『米国は日中共通の敵だ』という主張に、あなたは同意したのか?」
 浅沼が釈明しようとするとマッカーサーは拳(こぶし)で机をたたき、怒声を上げた。
 「同意したのか? イエスか、ノーか!」
 浅沼はすごすごと引き返すしかなかった。

 中国もソ連と同様に第57代首相の岸信介が進める日米安全保障条約改定に神経をとがらせていた。毛沢東が
進めた「大躍進」で餓死者が続出した混乱期にもかかわらず、昭和35(1960)年5月9日には北京・天安門広場に
約100万人を集め、「日米軍事同盟に反対する日本国民を支援する大集会」を開いている。

 中国の対日工作が奏功したのか、昭和34年3月の浅沼の訪中後、社会党は安保条約改定への批判を強めた。
3月28日には総評(日本労働組合総評議会)や原水禁(原水爆禁止日本国民会議)などと安保改定阻止国民会議
を結成。統一行動と称する組織的な反対デモを行うようになった。

 ただ、運動は大して盛り上がらなかった。昭和34年の通常国会は大きな混乱もなく、岸内閣は最低賃金法や国民
年金法など雇用・社会保障制度の柱となる法律を粛々と成立させている。

 6月2日投開票の第5回参院選(改選127)も安保改定は大きな争点とならず、自民党が71議席を獲得した。
社会党は38議席、共産党は1議席だった。

 安保闘争はむしろ社会党内の亀裂を深めた。

 社会党右派の西尾末広ら32人は、社共共闘を目指す左派を批判し、秋の臨時国会召集前日の昭和34年10月
25日に離党した。

 秋の臨時国会は、南ベトナムだけを賠償請求権の対象とするベトナム賠償協定に社会党などが反発し「ベトナム
国会」となった。11月27日未明の衆院採決を機に社会党議員の誘導で安保反対派の群衆約1万2千人が国会内
に乱入、300人以上の負傷者を出す事件が起きた。これが安保闘争の前哨戦といえなくもないが、議会制民主
主義を否定する手法に批判が集まり、反対運動は沈静化した。

27名無しさん@お腹いっぱい。2015/05/09(土) 07:34:10.06ID:KQEzuqul
 岸は昭和35年(1960)1月16日に全権委任団を率いて米国に出発し、19日に新安保条約に調印した。この前後
のデモも散発的だった。西尾ら衆参57議員は24日に民主社会党(後の民社党)を結党、社会党や労組は分裂含み
の余波が続き、動けなかった。

 転換点は、昭和35年5月19日の衆院本会議だった。

 第34代米大統領のドワイト・アイゼンハワー(アイク)の訪日予定日は6月19日。それまでに何としても新安保条約を
承認する必要があった。社会党は審議拒否に入り、参院審議は望めず、もはや衆院で可決した条約案を憲法61条に
基づき30日後に自然承認させるしかない。タイムリミットは5月20日だった。

 19日午後10時半、本会議開会のベルが鳴ったが、社会党議員や秘書がピケを張り、議長の清瀬一郎は議長室に
閉じ込められたまま。清瀬は院内放送で「名誉ある議員諸君、このままでは議長の行動も自由になりません」と呼び
かけたが、埒(らち)が明かない。

 11時5分、清瀬はついに警官隊を動員した。警官隊とピケ部隊の乱闘の中、間隙(かんげき)を突いて清瀬は本会議
場に突入し、11時49分に自民党だけで50日間の会期延長を可決した。

 清瀬は岸らと協議の上で強行策に出た。いったん散会を表明し、20日午前0時5分に再び開会。そこで新条約承認
案を緊急上程し、強行採決した。

 「アンポ反対」「国会解散」「アイク訪日阻止」「岸倒せ」−。5月19日を境に安保闘争は、岸への個人攻撃にすり替わ
り、国会周辺のデモは雪だるま式に膨れあがった。

 それでも当時のデモは牧歌的だった。男はワイシャツ姿や学生服、女はスカート姿も多かった。もっとも過激とされた
全学連でさえ基本的には非暴力戦術をとり、70年安保闘争のようにヘルメットにゲバ棒で武装する人はいなかった。

 流行したのは、両手をつないで並んで進む「フランスデモ」。仕事帰りのデート代わりにデモに参加するカップルも多く、
デモの合間を縫うようにアイスクリーム屋が「アンポ反対アイス」を売り歩いた。

 岸もしばらくは余裕綽々(しゃくしゃく)だった。東京・渋谷の岸邸は連日デモ隊に囲まれたが、記者団に「声なき声に
耳を傾ける。今日も後楽園球場は満員だったそうじゃないか」と語り、自宅では普段通りにくつろいだ。5歳だった孫の
安倍晋三(第90、96、97代首相)が「アンポ反対!」とまねたときも目を細めた。

 6月19日の自然承認。期限を切ったことは、安保闘争に「目標」を与える結果となり、6月に入るとデモはさらに肥大
化した。

 「至急来てくれないか」
 岸から電話で呼び出された郵政相の植竹春彦は、闇夜に紛れて首相官邸に通じる裏口をくぐった。

 「デモ隊がNHKを占拠して革命的放送を流したら大変なことになる。すぐに警視庁と話をしてNHKの防備を固めてくれ」

 岸にこう命じられた植竹はすぐに警視庁とNHKに出向き、対応を協議した。深夜になり再び裏口から官邸に入ると、
岸は首相執務室のソファで大いびきをかいていた。植竹が声をかけると、岸はむっくり起き上がり、「NHKの防備の
手配は無事終わりました」との報告を聞くと「ご苦労さま」と笑顔でねぎらい、再び横になった。

 外ではまだ「安保反対」「岸辞めろ」の大合唱。それでも爆睡できる岸の豪胆さに植竹は心底驚いた。

 事態は悪化の一途をたどった。6月10日、アイクの新聞係秘書(現大統領報道官)のジェームズ・ハガチーが、
アイク訪日の最終調整のため来日した。

 午後3時35分、米軍機で羽田空港に到着したハガチーは、デモの実態を確かめるべく米海兵隊のヘリコプターでは
なく米大使館のキャデラックに乗り込んだ。

 だが、首都高が京橋−芝浦間で初開通するのは昭和37(1962)年暮れ。羽田から都心に向かうには多摩川の
土手沿いなど一般道しかなかった。ハガチー一行の車は弁天橋手前の地下道出口で全学連反主流派に囲まれ、立ち往生した。
 初めは学生たちもおとなしく、ボディーガードの靴を踏んだ学生は「アイムソーリー」と頭を下げた。だが、一人が車上
に登り「ハガチー出てこい」と叫ぶと窓ガラスや車体を叩く者が続出、現場の警察官だけでは排除できなくなった。

28名無しさん@お腹いっぱい。2015/05/09(土) 07:36:11.46ID:KQEzuqul
 結局、ハガチー一行は米海兵隊のヘリコプターに救出された。アイク訪日に黄信号がともった。

 6月15日夕。断続的に雨が降る中、約20万人が国会議事堂を幾重にも包囲した。全学連主流派の学生約7500人
も集結した。

 全学連主流派は、リーダーの唐牛健太郎ら幹部の多くが逮捕されていた。その焦りもあり、「国会突入」という過激
な行動に出た。

 午後5時半ごろ、学生たちは国会南通用門の門扉に張り巡らされた針金をペンチで切断。敷石をはがして投石を始
め、バリケード代わりに止めた警察のトラックを動かそうとした。

 国会敷地内には鉄製ヘルメットをかぶった警察部隊約3500人が待機しており、放水で応酬した。

 午後7時すぎ。学生たちが雪崩を打つように敷地内に突入し、警察部隊と激しくぶつかった。

 東大文学部4年の長崎暢子(77)=東大名誉教授=は、卒論用に借りた書籍を国会図書館に返却したその足で
デモに参加した。

 長崎は最前列から十数列後ろでスクラムを組み国会敷地内に突入した。数列前に友人の東大文学部4年の樺
(かんば)美智子=当時(22)=の姿が見えた。

 デモ隊と警察部隊に挟まれる形で猛烈に押され「苦しい」と思ったが、身動きできない。頭上からは警棒が容赦
なく振り下ろされた。腹も突かれた。「痛い」と悲鳴を上げたが、逃げようがない。「倒れたらダメだ。死んじゃうぞ!」。
誰かにこう励まされたが、長崎の意識は次第に遠のいた。

 「女子学生が死んだらしい」−。午後7時半すぎ、こんな噂(うわさ)がデモ隊に流れた。午後8時すぎ、社会党議員
が仲裁に入り、午後9時すぎ、国会敷地内で全学連の抗議集会が開かれた。ここで女子大生の死が報告され、黙祷
(もくとう)をささげた。

 集会後、学生の一部は暴徒化し、警察車両にも放火。翌16日未明、警察は催涙ガスを使用し、デモ隊を解散させた。
この騒動で負傷した学生は約400人、逮捕者は約200人に上った。警察官も約300人が負傷した。

 死亡した女子大生は樺だった。検死結果は「胸部圧迫と頭部内出血」だった。

 長崎は入院先の病院で樺の死を知った。「まさかデモで死んじゃうとは…」とショックだった。

 長崎と樺は大学1年からの友人だった。3年で長崎は東洋史、樺は国史を専攻したが、交流は続いた。樺は学者を
目指して徳川慶喜に関する卒論に取り組んでいたという。

 「こんな安保改定を行う岸信介はけしからん。われわれの卒論も哀れな末路をたどりそうだ。学問を邪魔するとは
けしからん」

 笑顔でこう語ったのが、樺との最後の会話だった。

29名無しさん@お腹いっぱい。2015/09/21(月) 02:05:34.14ID:FCZ649pW
鬼怒川の被災地で米軍が、また、ボランティア活動に励んでる。

在日米軍は東日本大震災でも「オペレーション・ともだち」の一環として、率先して

危険な原発の海にもぐって、瓦礫撤去をしてくれた。

大阪湾から引っ張ってくる汚水貯めのメガフロートが接岸できないという理由だった。

本来なら、自国の自衛隊がすべき任務だ。

その尊い友情の行為が、たった1度、イヌHKで放映されただけで消えた。

荒れた冷たい海にもぐって、せっせと瓦礫を引き上げる米軍人の姿をリアルタイムで見たが、

ありがたいと心から思える行動だった。

日本はいつから献身的な好意を好意とうけとめられない、卑しい国になったのだろう?

大陸や半島が悪質行為をはたらいても、文句一つ言えないくせに、米軍の親切には感謝する

気もないのか????

日本人よ、あまりに醜いぞ!!!!

30名無しさん@お腹いっぱい。2015/10/02(金) 20:29:26.94ID:RsKSbVaF
米国主導の空爆がISにダメージを与えていないことを見せつけた後、露国がシリアの要請で空爆開始

米軍やサウジ、イスラエル、欧州軍によるイスラム国爆撃は見せかけだけで、ほとんど何の効果もなかった
当然だ、イスラム国を作ったのはイスラエルとアメリカなのだから
これに対してロシアがシリアの要請を受けて本当の空爆をしてアメリカは大慌て
https://twitter.com/tokaia mada/status/649699827194839041
プーチンが、イスラエル=アメリカの前に立ちはだかった これは凄いことだ
https://twitter.com/tokai amada/status/641878523263643648


   《 左翼の盟主ロシアが、アポロ計画の秘密暴露! アメリカ、世界制覇ゴール目前で、大ゴケwww(笑) 》


メドヴェージェフ

『世界が地球外生命体の実在の真相を知る時がきた。アメリカが公式に認めないなら、クレムリンは独自に情報公開する予定だ』
https://www.youtube.com/watch?v=gAE5665i3lQ

       , - ―‐ - 、     日本はアメリカの国債の25%を所有していますが、それを引き出すと世界経済が破綻します
      /         \     それが最終的な暴落であることがはっきりするや否や、マイトレーヤは出現するでしょう
     /    ∧ ∧  ,   ヽ    暴落後における政府の第一の義務は、人々を正しい食物で養うこと、そして最後に防衛です
    ./  l\:/- ∨ -∨、! , '     magazines/si5n7k/04zpzf/bf1tqd
   / ハ.|/          ∨|,、ヘ 
  |ヽ' ヽ     >  <    ノ! l     他の国々のように、日本もさらに多くの原子力発電所を作ろうとしています
. 〈「!ヽハ._    __    _.lノ |      多くの人々が核の汚染の影響で死んでいるのに、彼らは幻想の中に生きています
  く´ \.)    ヽ. ノ   (.ノ  ̄      マイトレーヤは、世界中の核分裂による原子力発電所を直ちに閉鎖することを助言されます
   \ `'ー-、 ___,_ - '          ahjzfl-1/04zpzf/n0gkne

31名無しさん@お腹いっぱい。2015/10/02(金) 20:31:16.37ID:RsKSbVaF
      ` - 、 ||V V|| \
        | ||   || l\         世界平和にとって最大の脅威である国は、イスラエル、イラン、アメリカです
      / ″         \       アメリカによる他の国々への虐待に反対の声を上げなければなりません
(( ((  /  まる子れーや \     マイトレーヤが公に世界に現れるにつれて、UFOがとてつもない数で姿を表すでしょう
     ̄ \_ \ /_/ ̄    magazines/si5n7k/kxz1kf/xchu67

アメリカ帝国の確立をかなり意識的に考えて、それに向かって働きかけている人々がアメリカに大勢いる。
彼らは今世紀(21世紀)をこの帝国が出来上がるアメリカの世紀と呼ぶ。しかし、そうはならないだろう。
彼らが世界中に‘民主的’制度を確立したいという衝動をコントロールするのは、マイトレーヤの任務である。
magazines/si5n7k/ndshrf/d2zeeo

もちろん、彼のアイディアに恐れを感じる者たちがおり、彼の(出現の)進行を止めようとするでしょう。
magazines/ahjzfl-1/pzytyf/u4t847

Q アメリカ政府は民衆の力を恐れているのですか。
A はい、彼らはあらゆる方法を使ってそれを塞ぎ止めようとするでしょう。
magazines/33116k/ndshrf/xchu67

アメリカは他のいかなる国よりも多くの拒否権を行使し、イスラエルに対する決議案の場合、63回も拒否権を使った。
イスラエルはアメリカの拒否権が彼らを非難から守ることを知っているゆえに、ただ国連をばかにする。イスラエルは、罰を逃れる。
拒否権制度とアメリカの保護のゆえに、イスラエルに対して今も存在するこれら63の決議案を彼らは実施しようとする必要はないのである。
安全保障理事会が解消され、拒否権が取り去られるまで、国連総会は民主主義的な総会にはなれない
magazines/si5n7k/ndshrf/d2zeeo

Q 新しい世界秩序におけるイスラエルの役割は何ですか。
A 跪いて、パレスチナでの行為に対する許しを請うことです。
magazines/swl9d8/fkmww5/nu99he

32名無しさん@お腹いっぱい。2015/10/02(金) 20:32:26.81ID:RsKSbVaF
      ` - 、 ||V V|| \
        | ||   || l\         世界平和にとって最大の脅威である国は、イスラエル、イラン、アメリカです
      / ″         \       アメリカによる他の国々への虐待に反対の声を上げなければなりません
(( ((  /  まる子れーや \     マイトレーヤが公に世界に現れるにつれて、UFOがとてつもない数で姿を表すでしょう
     ̄ \_ \ /_/ ̄    magazines/si5n7k/kxz1kf/xchu67

アメリカ帝国の確立をかなり意識的に考えて、それに向かって働きかけている人々がアメリカに大勢いる。
彼らは今世紀(21世紀)をこの帝国が出来上がるアメリカの世紀と呼ぶ。しかし、そうはならないだろう。
彼らが世界中に‘民主的’制度を確立したいという衝動をコントロールするのは、マイトレーヤの任務である。
magazines/si5n7k/ndshrf/d2zeeo

もちろん、彼のアイディアに恐れを感じる者たちがおり、彼の(出現の)進行を止めようとするでしょう。
magazines/ahjzfl-1/pzytyf/u4t847

Q アメリカ政府は民衆の力を恐れているのですか。
A はい、彼らはあらゆる方法を使ってそれを塞ぎ止めようとするでしょう。
magazines/33116k/ndshrf/xchu67

アメリカは他のいかなる国よりも多くの拒否権を行使し、イスラエルに対する決議案の場合、63回も拒否権を使った。
イスラエルはアメリカの拒否権が彼らを非難から守ることを知っているゆえに、ただ国連をばかにする。イスラエルは、罰を逃れる。
拒否権制度とアメリカの保護のゆえに、イスラエルに対して今も存在するこれら63の決議案を彼らは実施しようとする必要はないのである。
安全保障理事会が解消され、拒否権が取り去られるまで、国連総会は民主主義的な総会にはなれない
magazines/si5n7k/ndshrf/d2zeeo

Q 新しい世界秩序におけるイスラエルの役割は何ですか。
A 跪いて、パレスチナでの行為に対する許しを請うことです。
magazines/swl9d8/fkmww5/nu99he

33名無しさん@お腹いっぱい。2015/12/27(日) 10:54:08.18ID:xzHSK4Tc
消えゆく日本の「8つのノー」、湾岸戦争が安保政策の転機に

[東京 21日 ロイター] - 米国の著名な日本研究者ケネス・パイル氏は、集団的自衛権の行使や武器輸出などを認めない
日本の安全保障政策を、かつて「8つのノー」と表現した。指摘のほとんどは、もはや過去のものになりつつある。

関係者の多くは、四半世紀前の湾岸戦争が転機だったと指摘。「小切手外交」と揶揄(やゆ)された日本は平和主義と決別し、
徐々に政策を変えていった。

<砂漠で戦う米軍、雪像を造る自衛隊>

湾岸戦争さなかの1991年2月、陸上自衛隊の吉富望3佐は都内で米軍との図上演習に参加していた。室内にはテレビモニター
が並び、米側の将校はCNNが映し出す砂漠の戦闘に気を取られているようだった。その傍らで、別のテレビが札幌雪祭りで雪像を
造る自衛隊の様子を伝えていた。

「本当に同盟国なのか、なぜ砂漠の米軍の隣に自衛隊はいないんだ。そう言われた」──。今年4月に陸将補で退役し、現在は
日本大学で教鞭を取る吉富教授は振り返る。中東に原油の9割を依存しながら、憲法の制約で自衛隊を派遣できない日本は、
代わりに戦費130億ドルを負担した。

それから四半世紀、日本は自国の領域外でも自衛隊の武力行使を可能にする法制を整備し、長らく堅持してきた武器の禁輸政
策も転換した。大きく様変わりした安全保障政策は、強い日本の復活を目指す安倍晋三首相の主導によると思われがちだ。

しかし、振り返ると転機は湾岸戦争だった。あのとき安全保障政策に携わっていた関係者が感じた屈辱が、日本に平和主義からの
決別を決意させた。「今起きている変化のルーツはそこ(湾岸戦争)にある」と、吉富教授は話す。

その一方で「今の日本を動かしているのは、中国に対する強い懸念だ」とも指摘する。

<机を叩いて後方支援を迫った米軍>

西元徹也氏も、湾岸戦争時の「小切手外交」で苦い思いをした1人だ。「砂漠の嵐作戦」が始まった91年1月17日朝、陸上
幕僚監部の副長だった西元氏は、東京南青山の官舎でテレビを見ていた。巡航ミサイルがイラク領内に向けて発射された瞬間、
西元氏は迎えの車を待てず、21段変速の自転車に飛び乗った。

当時は六本木にあった防衛庁に向かってペダルをこぎながら「日本は何もできないまま終わるのだろうか」と考え続けたという。「カネは
出すが人的な貢献をしないと、国際社会に評価されないことがみんな分かった」と、西元氏は言う。

日本は翌92年、PKO(国連平和維持活動)協力法を成立させ、国際貢献のあり方にひとつの答えを出す。陸上自衛隊トップの
幕僚長になっていた西元氏は、内戦が終結したカンボジアの復興支援に600人の隊員を送り出した。「あれが出発点だった」と、
同氏は振り返る。

しかし、93年に朝鮮半島危機が起きると、新たな難問に直面した。核開発疑惑が持ち上がった北朝鮮に対し、米国は武力行使を
真剣に検討。在日米軍司令官のマイヤーズ中将は、自衛隊トップの統合幕僚議長に就いた西元氏に、部隊の詳細な展開計画
を提示した。

輸送や整備、補給、衛生、こうした後方業務を自衛隊が引き受けてくれるなら、米軍はその分の戦力を前線に回せると、日本側
に後方支援を迫った。

ところが、当時の日本には、米軍の武力行使を後方で支援する法律がなかった。「民間の輸送業者、整備業者、物品業者と契約
してくださいと言わざるを得なかった。本当に情けない思いをした」と、西元氏は振り返る。

米側は西元氏の幕僚に対し「これは日本の防衛そのものだろう。なぜこんな後方支援すらしてくれないのか」と、机を叩いて迫ったという。

このときのやりとりが、97年の日米防衛協力の指針(ガイドライン)の改定につながる。19年ぶりに見直されたガイドラインには、朝鮮
半島や台湾海峡の有事を念頭に、米軍に対する自衛隊の後方支援の任務が追加された。99年には、こうした新たな活動を法的
に担保する周辺事態法が成立した。

34名無しさん@お腹いっぱい。2015/12/27(日) 10:54:50.39ID:xzHSK4Tc
<残るは核武装>

2000年に入ると、自衛隊はインド洋に補給艦を派遣し、アフガニスタンのタリバン政権を攻撃する多国籍軍に給油活動を
行った。イラク戦争後には復興支援に部隊を送り、ソマリア沖の海賊対処にも加わった。

自衛隊の海外活動は常態化していった。「これまで20年間、PKOや周辺事態法、有事法制を作る中で積み上げていった」
と、昨年9月まで防衛相を務めた小野寺五典衆院議員は、日本の安全保障政策の変遷を振り返る。

そして、今年9月。中国が南シナ海や東シナ海への進出を強める中、日本は集団的自衛権の行使を可能にする安全保障
法制を成立させた。自国の領域外でも自衛隊の武力行使が可能になり、日本が防衛力の軸足を移す東シナ海を中心に、
日米が共同で活動するための条件が整う。

「(湾岸戦争から)背負ってきた荷物をようやく下ろすことができた」と、外務省副報道官を経て、現在は内閣官房参与の
谷口智彦氏は話す。

日本研究者のパイル氏が指摘した「8つのノー」とは、海外派兵はしない・集団的自衛権の行使は認めない・戦力投射能力
は持たない・宇宙の軍事利用はしない・武器輸出はしない・軍事技術を他国と共有しない・防衛予算は国内総生産(GDP)
の1%を超えない・核兵器は持たない──だった。

「『8つのノー』はすっかり過去のものとなった。核武装を除けば」と、パイル氏はロイターに語った。

35名無しさん@お腹いっぱい。2015/12/29(火) 16:31:07.35ID:DoqwY6Ui
【日韓慰安婦問題合意】米国、日韓関係改善を強く後押し[12/29] [無断転載禁止]©2ch.net
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1451371892/
【慰安婦像】米国報道官「前向きに捉えてもらいたい」と述べ、アメリカ国内の団体も自制するべきだという考えを示唆 [無断転載禁止]©2ch.net
http://daily.2ch. net/test/read.cgi/newsplus/1451370899/

【慰安婦】韓国政府「少女像の移転、関連団体と協議するとは言ったが撤去するとは言ってない」★2 [無断転載禁止]©2ch.net
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1451370561/
【日韓】ユネスコ「見送り」報道は事実無根=韓国「そんな合意をしたこともなく、そうすると言ったこともない」 [無断転載禁止]©2ch.net
http://daily.2ch. net/test/read.cgi/newsplus/1451371901/

36名無しさん@お腹いっぱい。2016/01/07(木) 13:46:44.04ID:UglIFW+O
【米国】韓国系団体が慰安婦数「40万人」主張 「署名サイト」開設し、攻勢強める★3[01/06]©2ch.net
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1452131994/
【国際】米韓国系団体が慰安婦数「40万人」主張 「署名サイト」開設し、攻勢強める★2[1/6] [無断転載禁止]©2ch.net
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1452135949/

【朝鮮】オバマ大統領、慰安婦問題 「安倍首相の勇気と決断に祝意」 北朝鮮核実験については緊密な連携で一致 日米首脳電話会談©2ch.net
http://daily.2ch. net/test/read.cgi/newsplus/1452127983/
【国際】韓国が「屈辱的」と憤慨している慰安婦合意 米安保副補佐官「オバマが日本に圧力加えた」 [無断転載禁止]©2ch.net
http://daily.2ch. net/test/read.cgi/newsplus/1452141432/

37名無しさん@お腹いっぱい。2016/12/11(日) 06:39:47.48ID:XTujcvLx
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
まともな業者で20%、悪質な業者では40〜50%も請負先から請負元を通じて、本人には渡っていないという。
同条件で直接雇われるより、良心的なところで20%抜かれ、悪質なところで40〜50%抜かれるということである。

派遣業者は労働者を派遣スタッフという名で登録させ、派遣元に彼らを送り込む仕事をしている。
単なる、人の斡旋だけである。
そのスタッフの能力を評価する実力もないし、教育する力もない。管理することも出来ない。
会社の体をなしていない。まさに現在の口入れ屋に過ぎない。
派遣会社に雇用されているならば、保険に加入しているはずだが、派遣される時にしか加入しないのは、雇用状態とは言えないのではないか。
普通言われる正社員のような権利が殆ど無いではないか、雇用状態ではない。
ましてや、派遣業は誰でも起業できる。派遣先の専門的な知識無くして。コンピューターでスタッフ管理するだけである。
それで、派遣業の経営者は人のふんどしで、人の上前をはねて、丸儲けだ。
グッドウイル会長は人にピンハネをしたお金で高級マンション高級外車に乗る。
規制緩和の利益は、政治献金という形で還元される。
規制緩和が生む、新たな政官業の癒着構造だ。

派遣事業法は86年中曽根内閣の時、ITなど専門業種13種に導入された。
99年小渕内閣の時、業種が拡大され、04年小泉内閣の時、製造業が解禁された。

中間搾取、こういう阿漕な商売を認めたのだろう。
経営者にとって、極めて都合がよい。経営がうまくいかなければ派遣に返ればいい。それより、恒常的に楽に経営しようと思えば、できるだけ派遣に置き換えれば良い。
政府は完全に経営者の立場に立ち、労働者を食い物にした。
派遣会社はその労働者を食い物にした。
結局、規制緩和は弱者の労働を、強者の富に置き換える操作だったのである。

正社員編みの待遇を派遣先に義務づけ、かつ
手数料(中抜き)は不動産紹介並みの5%という上限を定めるか、
さもなくば、現代の口入れ屋は即刻、廃止すべきだ
★★★★政治家・マスゴミ・が隠す日本の真実!★★★★
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
https://www.youtube.com/watch?v=D6YjUs6fZ6c

38名無しさん@お腹いっぱい。2017/11/10(金) 03:17:36.93ID:DRgbxnRb
デマ常習犯 阿比留瑠比 政治部長の姉御
https://download1.getuploader.com/g/neroma002/234/999.jpg

39名無しさん@お腹いっぱい。2017/11/19(日) 01:53:02.24ID:l0tqM8tL
音声入力新時代で日本は良くなる

40名無しさん@お腹いっぱい。2017/11/20(月) 17:52:52.64ID:V3J+Yf5m
よくなる日本老人天国

41名無しさん@お腹いっぱい。2017/11/20(月) 22:16:10.14ID:F0Lkyaw4
2chMate 0.8.10.1/EveryPhone/EP172PR/7.1.1/LR

42名無しさん@お腹いっぱい。2017/11/28(火) 06:19:38.44ID:EbKYHH5T
より仲良く

43名無しさん@お腹いっぱい。2018/02/12(月) 18:38:13.05ID:VU0hlHYP
無洗米ブーム一段落、ひと休み

44名無しさん@お腹いっぱい。2018/02/12(月) 20:24:11.06ID:VLHTUAI0
基地外が夜になっても暴れまくってる
https://egg.5ch.net/test/read.cgi/cafe60/1511611802/22

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