0278名無しさん@お腹いっぱい。2018/06/02(土) 08:20:51.52ID:dfHu1jwv
永遠の銀幕貴公子、金●武様
指マソして欲しいハァハァ
クソニリソグス一晩中して欲しいハァハァ
突然押さえつけられて「きもちいいことしちゃおっかなぁ」って言われたいハァハァ
個室に閉じ込められ立ちバッ区して欲しいハァハァ
写生した後もずっとずっと私の中にいて欲しいハァハァ
血津の中にベロ入れて欲しいハァハァ
血津分泌液を樹液に群がるカブトムシのように余すことなくなめて欲しいハァハァ
パソティはぎとられたいハァハァ
二区棒をマソで締め上げたいハァハァ
マソコ酸っぱいって一マン貝言われたい。
例プごっこしたい。 髭で外院部をジョリジョリして欲しい。
バイ部入れて欲しい。 マソ圧力を褒められたい。
ハァハァ ハァハァ ハァハァ ハァハァ ハァハァ ハァハァ ハァハァ ハァハァ ハァハァ ハァハァ ハァハァ
ハァハァ ハァハァ ハァハァ ハァハァ ハァハァ ハァハァ ハァハァ ハァハァ ハァハァ ハァハァ ハァハァ
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ハァハァ ハァハァ ハァハァ ハァハァ ハァハァ ハァハァ ハァハァ ハァハァ ハァハァ ハァハァ ハァハァ
ああっ・・・そこっ、いい・・・。ああんっ、もっとぉ
編:恐れから、より自閉的になっていくようなことはありませんか?
武:ありますね。自分はタレントに向いてないと思うんです。日本の芸能界を知ってからは特に、自分がだらだらしてて、積極的じゃないなぁと思って。
編:どういう人間にはなりたくないですか?
武:大物タレント。
編:恐れから、より自閉的になっていくようなことはありませんか?
武:ありますね。自分はタレントに向いてないと思うんです。日本の芸能界を知ってからは特に、自分がだらだらしてて、積極的じゃないなぁと思って。
編:どういう人間にはなりたくないですか?
武:大物タレント。
編:恐れから、より自閉的になっていくようなことはありませんか?
武:ありますね。自分はタレントに向いてないと思うんです。日本の芸能界を知ってからは特に、自分がだらだらしてて、積極的じゃないなぁと思って。
編:どういう人間にはなりたくないですか?
武:大物タレント。
編:恐れから、より自閉的になっていくようなことはありませんか?
武:ありますね。自分はタレントに向いてないと思うんです。日本の芸能界を知ってからは特に、自分がだらだらしてて、積極的じゃないなぁと思って。
編:どういう人間にはなりたくないですか?
武:大物タレント。
編:恐れから、より自閉的になっていくようなことはありませんか?
武:ありますね。自分はタレントに向いてないと思うんです。日本の芸能界を知ってからは特に、自分がだらだらしてて、積極的じゃないなぁと思って。
編:どういう人間にはなりたくないですか?
武:大物タレント。
編:恐れから、より自閉的になっていくようなことはありませんか?
武:ありますね。自分はタレントに向いてないと思うんです。日本の芸能界を知ってからは特に、自分がだらだらしてて、積極的じゃないなぁと思って。
編:どういう人間にはなりたくないですか?
武:大物タレント。
編:恐れから、より自閉的になっていくようなことはありませんか?
武:ありますね。自分はタレントに向いてないと思うんです。日本の芸能界を知ってからは特に、自分がだらだらしてて、積極的じゃないなぁと思って。
編:どういう人間にはなりたくないですか?
武:大物タレント。
安室が引退したら一般人になるからコピペやめたほうがいいよ
0314名無しさん@お腹いっぱい。2018/06/05(火) 21:50:47.29ID:srqE/DQn
永遠の銀幕貴公子、金●武様
指マソして欲しいハァハァ
クソニリソグス一晩中して欲しいハァハァ
突然押さえつけられて「きもちいいことしちゃおっかなぁ」って言われたいハァハァ
個室に閉じ込められ立ちバッ区して欲しいハァハァ
写生した後もずっとずっと私の中にいて欲しいハァハァ
血津の中にベロ入れて欲しいハァハァ
血津分泌液を樹液に群がるカブトムシのように余すことなくなめて欲しいハァハァ
パソティはぎとられたいハァハァ
二区棒をマソで締め上げたいハァハァ
マソコ酸っぱいって一マン貝言われたい。
例プごっこしたい。 髭で外院部をジョリジョリして欲しい。
バイ部入れて欲しい。 マソ圧力を褒められたい。
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永遠の銀幕貴公子、金●武様
指マソして欲しいハァハァ
クソニリソグス一晩中して欲しいハァハァ
突然押さえつけられて「きもちいいことしちゃおっかなぁ」って言われたいハァハァ
個室に閉じ込められ立ちバッ区して欲しいハァハァ
写生した後もずっとずっと私の中にいて欲しいハァハァ
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血津分泌液を樹液に群がるカブトムシのように余すことなくなめて欲しいハァハァ
パソティはぎとられたいハァハァ
二区棒をマソで締め上げたいハァハァ
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ああっ・・・そこっ、いい・・・。ああんっ、もっとぉ
恋とはまぼろしを好きになること。
相手のまぼろしを好きになるってだけじゃなく、
まぼろし自体を好きになってしまう性質が人間にはある。
その人が見るまぼろしとは、その人が対象に期待しているイメージ。
期待しているイメージを相手に見られそうなら、恋というまぼろしのなかに自ら入り込む。
そしてお互いに自分の幻を維持&幻そのものを手に入れようと、相手のまぼろしどおりにふるまうようになる。
(恋は軽薄な者しかできないとも言われるのはこのためだろう)
これは本質的には、相手を好きなのではなく、自分のまぼろしを好きになってる状態なんだけど、
そのまぼろしは自分が自分に見せているまぼろしであり、
相手も自分のまぼろしを維持するために、相手のまぼろしどおりにふるまうことを努力するので、
なかなかまぼろしと気が付くことができない。
だから結婚さえできちゃって、まぼろしだと気が付いた場合は後の祭りなわけだ。
人は弱く、期待感(希望)なくして立っていられないがために起きる。
期待感があれば進むパワーが得られるから起きてしまうこと、ともいえるか。
恋という状態の唯一ともいえるポジティブな側面ではあるわけだしね。
人はまぼろしで強くもなりえるのは事実だし。
男女ともに期待感を提示しあって、
相手に一つのパッケージとして見せることができれば、幻が生まれてしまう。
恋しやすい人とは、静かな不安に耐えられず期待感(希望)にすがりつきやすい状態の人であるし、
現実を咀嚼できず、まぼろしを見やすい人でもあるだろうね。
私はもう恋ではなく、愛が欲しいな。
希望ではなく、地に足付いたうえで見る現実。
まぼろしを打ち消して、現実にいたし、
相手のまぼろしにもなりたくない。
ただ、まぼろしを見ることが必然であるのなら、
まぼろしは現実の一部ともいえてしまう。
だからまぼろしを拒否することは不幸になりやすいんだ。
それはある意味現実を拒否することでもあるから。
でも、それでもやる価値があると思うから、まぼろしより真実で生きるのだ。
世間を見て、間違っていることがあまりに多く感じられて、世界に親しみを感じなくなり、
世界には間違っていることが当たり前のようにたくさんあると分かると、
自分の幸せに集中する気もそがれ、幸せ感じる生き方を積極的に選択していく気力が消えやすい。
すると不幸になり、不機嫌になる。その不機嫌をぶつけ合って連鎖していく。
親しめる範囲の世界への親しみは持ち続け、つねにそれは在ることを悟るべきなのに、
問題に集中してしまうと、それさえ忘れ、問題意識ばかりで意識が埋まる。
するとさらに不幸になる。不機嫌になる。
こうして、最初は良くあろうとした善良な人間が、不機嫌ウィルスをまき散らすゾンビになってしまう。
絶望が先だったのか、ゾンビへの逃避が先だったのか。あるいはその両方が同時に進行したのか。
私もゾンビの気持ちはよく分かる。
自分が、どれだけ幸せになりたいかどうかさえよく分からなくなるが、
不幸せを感じることだけは嫌だってことははっきりしている、って状態に迷い込み、
その状況のみじめさや、不安からくる孤独、報われない徒労感や、それでも生きねばならない空しさがそこにはあるだろう。
だがそれもまた自分が自分に見せるまぼろし。
自分の中に生じる拒否反応は、それ自体に意味や価値はなく、
日常性を取り戻すよう自らに促されている自動反応。
風邪をひいたときに、熱が出るのと同じで。
熱自体が問題の本体ではないが、熱に囚われてしまうようなものか。
精神的な防衛、一過性のワーキングメモリの埋まりに過ぎない。
受け取り方で変化してしまうような一過性の世界観にはまるべきではないから、
そんなまぼろしに影響されすぎてはいけない。
ではそのうえで自分はどうありたいのか、
どうあれば、自分という生を満たせるか、
あるがままの世界を解釈するのもいいが、自分が幸せになるために世界を解釈することも必要なのだろう。
中身への反論ではなくただの人格否定で終わってしまっているね。
常識と違った論理を提示されるも、どう論理的に反論していいかわからないままなので、
そんな論理を提示する人を見ると気持ち悪い、となるんだろう。
それも軽薄さの表出の一部。すごく軽薄だよ。
非常識な論理を持って見える人を見ると気持ち悪いってのは理解できるけど、
俺の書いてることはこうなんじゃないかという推論レベルできちんと論理づけてあるのだから、
その論理につっこみいれればいいだけなのに。
まあつっこめないけどね!つっこんでみやがれぇい!お待ちしております。
「恋は軽薄じゃないとできない。」に対して、
「そんなふうにいうのは擦れすぎだろう。恋とはいいものだ。」という立場で反論するなら、
恋とはうきうきしてポジティブになれるし、トキメキが生活に潤いを与え人生が楽しくなる。
成長するパワーももらえる。
哀しみをともなっても美しいストーリーになるし、
一途さや淡さには純粋な人間の気持ちが見えて愛らしい。
性衝動でもあるので、本質的であり、生きることそのものだ。
この気持ちを軽薄というなら軽薄でいい。恋することは美しい!
・・・みたいな感じになるだろうか。
まず一般論として恋は軽薄じゃないとできないとしたが、
期待をもち、ときめくのは自然な衝動、そこまでは軽薄ではない。
だが、そこから進んで、自分の安易な快を得ようと、
すすんでまぼろしを見たり、すすんでまぼろしになりにいくことは、
相手を好きなのではなく、自分自身を好きになってるがために相手を利用する、ような軽薄さがないとできないことだ。
しかし自分がそうしていること、相手がそうしていることに、人は気が付けない。
なぜなら上記のような、
恋とは全肯定出来る素晴らしいものだという意識のもとで作られた消費コンテンツに生まれた時からつかりきっていて、
それ以外は存在せず、それが普遍的な真実のようにちまたではされてしまっているから。
それが愛だとさえされてしまっているから。
だけどそれで不幸になる人が出る。しかも少なくない。
欲望先行のとても軽薄な文化になってるし、社会も意識も軽薄化させていく、
インスタントな快志向に陥っていく原因にもなっている。
恋という現象は生物の1反応である限り、そこには利己的なものも内包しているのにね。
支配と獲得欲求を生み出すパワーは、その人の中にあるネガティブな感情からも生まれている。
利己を最大限に認め、それさえも肯定したうえで獲得しに行くってのなら、
まだ分かりやすい利己主義に過ぎなくなるが。
理性的に大切に思う気持ちより、衝動で我を忘れるように利己的にならないと、まぼろしのなかには入れない。
めがくらみ、めをくらませることは、自分も相手も欺くことだからね。それくらいじゃないと入れない。
ただ入りたがっている人は、すぐに入っていってしまう。
そういうわけで、はじめから愛を求めると、いつまでたっても愛ははじまらぬまま消えていく運命を背負うわけだ。
若い時にそんなの周りに期待できないからね。
周りより先に気が付いてたどり着いてしまうとそうなってしまう。
まぼろしから確かな愛に変わることはありえるが、その確率は低く、困難度は高いので、
やはりまぼろしからはじめるのは軽薄なことだと思う。
まぼろしがきえる状態になった時にはじめて、
私は自分が一番かわいい存在だったに過ぎなかったんだ、と気が付ければまだマシで、
ほとんどは幻を見ていたことさえ気が付いていないんじゃないかな。
規定された常識は、それが常識になった理由があるものだが、
それを理解したのちには、疑いようのない真実だと思っていたこと、つまり常識だと思っていたことが、
こんな程度のものだったのかと、崩れさることはよくあることだ。
非常識な、だが論理的正当性を持って入はいる人間を、
そんな常識という不完全なモラルをたてにたたき出すことはモラハラであり、迫害。
そうして迫害してしまうことに気が付かない様は、とても軽薄で残念なことだね。
あーあ、またうるさく言っちった。
でもそれが人間だから。
そのほうが楽であり、流れに乗れて、いろいろあるだろうけど幸せを感じる機会は得られるかもね。
スピリチュアル関連に、「ひきよせ」という方法論がある。
よい気分になれることをする自分をとにかく肯定すれば、
いいことが勝手にひきよせられてきて幸せになれる、
それは量子力学から導かれる科学的なことなのである(そのところの詳しい説明は書かれていない)、
と、もっともらしい人たちに言わせた信仰みたいな感じの方法論。
利己的な自分でも、自分が心地よいならそれはよいことなのであり、
皆がそうすれば皆が幸せになるから、世界もよくなるんだ、それが人間の正しい生き方なんだ、それでいいんだよ、
みたいに、
とにかく自分が心地よいと思う状態でいることを肯定しまくっていくことが良いとしている。
迷える女性たちの一部に特に受けているようだ。
ひきよせという考え方は、
自分以外に起きている問題をかえりみる時間や意識を持つより、自分の幸福(自己実現、夢など)に集中し、
利己を最大限に認めると快を得やすい資本主義と自己責任社会に大きくマッチした考え方だと言えるので、
好まれている面があると思う。そこには自分以外にリソースを使わないという、一種の軽薄さが存在する。
(引き寄せは、その罪みたいな意識が幸せの邪魔なのだ、
だから利己を思う存分発揮し、人間として快を追求することは自然の法則に身をゆだねた、ただしい姿なのだよ、としている。)
軽薄なものほど自己リソースを節約して自分の利己に集中できるので、資本主義と自己責任社会のなかでは有利な資質になる。
だから快になる確率は高くはなる。
同時に、軽薄すぎてもそっぽを向かれるし、利己がなさ過ぎても、なにもできなくなるというのもある。
この状況があるから、軽薄さを正当化する引き寄せという考え方は、ある程度の有効性と信憑性を保持できて、信仰者がいるわけだ。
又、人は幼児期にしつけを受ける中で自制心を持つようになるが、
その時に利己的な意思はわがままであり、我慢するべきものだとされるので、
その副作用として、自分の主体性を制限することが生まれやすい。
社会性を身に着けるときに一緒に抑圧が生まれやすいわけだ。
とく女性の場合はワンパクが許される男性よりも抑圧は生まれやすいかもしれない。
そのモラハラの副作用ともいえる心の状態を、ひきよせという考え方は、
「自分の意思を、それが利己的なものでもいいから解放していい、
あなたが心地いいと思うことこそが大事であり、それがより高い次元につながっていくんだ。」みたいな考え方で、
自分の意思を全肯定してあげることによって、ありのままの自分の意思を取り戻すことにつながり、
心が楽になるという効果がでるために、ひきよせという考え方を評価をする人がいるのだろう。
特に女性の場合は、論理的に考えて正しさを導くことは男性より苦手としているので(あくまで一般論として)、
そのような、論理を介さずに利用できる方法論や、占いなどを含むスピリチュアル系カウンセリングを、男性よりも好む傾向がある。
こういうのも一種のまぼろしを見る効果を積極利用しようとするもの。
引き寄せという考え方は、
科学的には、ワーキングメモリをポジティブな気分になれるもので埋めることで、
そういう意識で行動してると、自然にそういう気分になれることに目が行くようになるので、
「やっぱり自分にいいことが起きているんだ」となり、さらにポジティブになって、
そういう自分を肯定していける循環を作っていく感じだろう。
だが、まぼろしを見ることで良い面もあるが、悪い面もある。
信仰とは、自分の理解を介さないで特定の考えをとりあえず受け入れ、なぞることで、
自分の凝り固まった意思を矯正し、
弱い自分の考えよりも、よいとされる型枠に自分を変化させて近づけてやることで、
心を楽にして生きよう、みたいな発想から生まれ出た行動様式。
キリスト教もそうだし、仏教にもそういうお経を読むだけで自然に悟りに近づける、みたいな方法論がある。
ブッダ自体がつくったものではないが。
新興宗教とかも個人が作った考え方を受け入れさせようとするものだろうし、スピリチュアル系もそうだろう。
そういう、解釈を挟まない信仰によって、自分の主体性のリセットをする行為は、
自分の考えを介さないで現実の中にいられる楽さがあるし、
自分の考えよりも深みと正しさがありそうな考えを受け売りすれば、
未熟な自分を捨て去って生きられるという不安感を和らげる効果も出る。
そういうわけで、がんじがらめになった自分の気持ちや現実をうまく理解できない人には信仰は手助けにはなりえるから、
その効果がほしい人には重宝されているわけだ。
しかし本質的には、自分の考察を省いて、他人が作った方法論をなぞっているだけなので、
真の主体性はなく、本質は理解されておらず、
そこには硬直によるもろさと、正しさの押しつけが発生しえる。
流行に乗る人にはその人間的もろさが感じられるから、それでいいのかというケチをつけられやすいわけだ。
流行やランキング上位など、多くの人に利用されているものは、
ある程度の価値保証の側面はありえるが、
そういうものに乗ることは、自分の考察の放棄をして、
多勢の受け売りをしているだけだろうということを想像させられるから。
楽しんでいるのだからケチをつけるのは野暮だし、
ティラミスがはやったときにティラミスを食べても、ティラミスはおいしい事実に変わりはない。
だが、そうなる過程に危うさを感じさせるところが、ケチをつけられる原因になっていよう。